仕事や勉強ができる多くの人に共通することは常にデスクの上が整理整頓されているということです。それだけ物事を整理しできていることのあらわれです。


だからと言って机の上にたくさん本を積んでいる人ができない人だというわけではありません。しかし、朝出勤した時に机の上に物があるとまずその整理から始めることになります。昨日の仕事の後片付けから始まるわけです。しかし、朝出勤して机の上に何もなければすぐにその日の仕事を机の上に広げることができます。



気持ちの問題かもしれません。しかし、私は常に勉強机の上に何もない状態にしてから就寝するようにしています。次の日に気持ちよく勉強を始められるように。

資格などの取得のために勉強などをしなければいけないときに「仕事が忙しくて時間がない」などという人がいます。


私は「時間がない」は言い訳でしかないと考えています。一日は24時間あります。いくら仕事が忙しくても隙間時間というものはあるはずです。本気で勉強する気があるなら、通勤時間の10分や15分だけでも勉強はできます。また、無駄に過ごしている時間は思っている以上に多いはずです。


時間はつくるものです。足りないなら他の何かを削ればいいだけのことです。物事に優先順位をつければ自然と必要な時間はつくりだせるのではないでしょうか。



今週は「一言」を特集していきます。


今日は「仕事を家庭に持ち帰らない」です。



仕事で嫌なことがあっても家庭に持ち込むようなことはしない、という意味です。


家庭にいる家族にとって職場で何があったかもわからないのに家庭に「不機嫌」というものを持ち帰られたら迷惑です。


嫌なことがあってもそれはそれでおいといて、家のドアを開けたら気持ちを切り替えることが夫婦円満、家庭円満を長続きさせるためには必要ではないかと思うのです。夫婦喧嘩しても日付が変わったらまた新しい一日として次の日に引きずらないことも必要なのではないでしょうか。

人間はこうしている今も生きています。しかし生きていっているのでしょうか?


 私は日々を「生きている」とは考えていません。「日々死に向かっている」と考えています。人間は生まれた瞬間から死に向かって生きています。生まれるということは必ず死ぬことでもあります。何事も終わりがあることがこれを示しています。80歳まで生きれば80年生きたことになるのでしょうか?実際に活動しているのはその2/3でしかありません。1/3は眠っています。とすると、80歳で死ぬ人間は正味約53年間しか生きていません。その間にどれだけ有意義に過ごすか。難しい問題です。

 もし、自分の銀行の口座にに毎日24万円ずつ振り込まれるとしましょう。その日に使い切らなければ無くなってしまい、また次の日に24万円振り込まれます。その時、あなたならどう対応するでしょうか。多くの方もそうだと思いますが私なら24万円全額引き出してその日その日にすべて使い切ってしまいます。そうしないと損だからです。人間の寿命も同じではないでしょうか。1日は24時間しかありません。その限られた時間をいかに過ごすか。自分の人生の時間の使い道を考える時間は決して無駄な時間ではないと私は思います。

 人間は生まれた時から死刑宣告を受けているという言葉がありますが、その通りだと思います。必ず死はやってきます。それは50年後かもしれないし明日かもしれない。もしかすると数時間後かもしれない。それは誰にもわかりません。それならば日々悔いの残らないように生きたいではないですか。明日死んでも悔いがないような日々を送ること、すばらしい生き方だとおもいます。

 私は「今、この時」というものを大切にして生きていきたいと思います。

今の世の中にかけているものとは一体何でしょうか。

もちろん、経済格差是正や人口問題等深刻な問題解決能力というものは欠けているのかもしれません。

しかし今の日本と昔の日本で決定的に違うところが一つあると思うのです。


「道徳力」です。


昔は近所付き合いもあり、地域でその子を育てるという文化がありました。ときには他の家の子を叱ることだってありました。しかし、今はどうでしょうか。近所付き合いも希薄化し、他人の子どもは他人の子どもとしてしか見ていない人が多いのではないでしょうか。この問題に関して、地域の防犯力も低下しています。その地域にみんなで住んでいる、という感覚がなくなってきているようにも思えます。

また、思いやりの心というものが希薄化してはいないでしょうか。たとえば電車に乗っていてお年寄りや体の不自由な人がいたら席を譲ってあげる、これは当然の行為ではないのでしょうか。しかし、今の日本は当然のようにできていないきらいがあります。

つまり、私の考える「道徳力」とは「おもいやりのこころ」ではないかと思うのです。

自分がもしその人の立場だったらどう思うかを考える力が低下しているのではないか、ということです。この考える力があれば日本はもっと良くなっていくであろうし、まず戦争なんてしようと思うはずがありません。殺された側の気持ちが理解できるからです。殺された人には当然家族がいます。その家族の気持ちも考えることが出来たら戦争なんでできるはずがありません。また、犯罪なんてできるはずがありません。もし窃盗された人が年金暮らしの老人でそのお金がなければ生活できなかった場合、そのお金を盗むことによってその老人は1カ月間自分の力で生きていけなくなります。そんな老人の気持ちが分かる人間なら到底金銭の窃盗なんて出来るはずがないと思うのです。

では、どうすれば道徳力をつけることが出来るのでしょうか。私は幼少期の子どもに対する両親のかかわり方が大きいのではないかと思います。特に母親の影響力は大きいと感じます。いくら金銭的に貧しくても、両親の愛情を受けて育った子は非行に走ったりしません。そんなことしたら親が悲しむことくらい分かるからです。子どもに対する虐待事件が発生するという問題については、親が子どもに対する愛情がないに等しいからではないでしょうか。産んだからには責任を持って育てるべきであると考えます。

また、非行に走る子どもに多いケースとして家庭内の問題があります。夫が会社で上司に怒られるなどしてストレスを蓄積し、このストレスを家庭に持ち帰り妻にぶつける。そこでたまった妻のストレスは子どもにぶつけられる。「どうしてこんなこともできないの」「どうして言うことを聞かないの」と言われ、怒られた子どものストレスはどこへ放出すればいいのでしょうか。こうして蓄積された子どものストレスが爆発する時、非行・犯罪・不登校などの問題が発生します。

いろいろと記述しましたが、つまり、すべての根底には道徳力の欠如があるのではないかと思うのです。

国はこの「道徳力」の強化について早急に対策をすべきであると思います。

 夫婦やカップルの間で喧嘩をすることがあります。

 互いの意見をぶつけ合うことは大切なことであり、そういう意味では必要なことであると思います。しかし物事には限度があると思います。

 まず、手を出すこと。最低なことです。物を投げること。これも違反行為であると思います。理屈で言えば意見が対立するから喧嘩になるのだから、喧嘩は言葉でするものではないのですか、と思うのです。

 以前、とある人にこういう話を聞きました。「男性は泣くほど弱くなる。女性は泣くほど強くなる。つまり、夫婦を見ればその家庭の本当の状況がよく分かる」というのです。男性が喧嘩などで女性を泣かせる回数が多いほど女性は強くなっていき、逆に女性があまりにも強すぎると男性が弱くなっているというのです。つまり、引くところは引く、言うことは言う、認めるところは素直に認める、このバランスが大事だということでした。

 何事も対話で解決できないものでしょうか。対話で解決できるならだれも悲しむ必要はないはずです。戦争も起こりません。誰も泣く事はないはずです。私にはこれが非現実的なことだとは思えないのです。

 私は他人に対してほとんど怒りません。すべての人間の行動には必ず理由があると考えるからです。まず、なぜそうしたのかを聞きます。

 その結果として怒る必要があるのならば、それからでもいいのではないでしょうか。

皆さんはお金に対してどのように考えながら接しているでしょうか。


私の場合、日常生活でもお金を使う際は必ず「これは生き金か、それとも死に金か」を考えるようにしています。そうすれば無駄遣いは自然と減らすことが出来るからです。そもそも「生き金」「死に金」とはなにか。そのままの意味ですが、簡単に説明すれば「生き金」とは使って為になっている金、「死に金」とはいわゆる無駄金のことです。たとえば、大学予備校の受験生を考えてみましょう。受験生の親は子どもに行きたい大学へ行かせてあげるために高い授業料を払っています。その金は「生き金」でしょうか、「死に金」でしょうか。

 答えは「結果次第」です。子どもが高い授業料を払ってもらって自分は勉強していると感じて必死になって勉強し、第一志望の大学へ入学できればその金は「生き金」となります。しかし、授業料は親が勝手に払ってる、自分は勉強したくないと思っていたらどうでしょうか。普通は試験に合格することはできず、高い予備校の授業料は「死に金」となってしまいます。この例の場合、授業料は「生き金」にするも「死に金」にするも子ども本人にかかっているということになります。

 親が教育費を「投資」と考えるか、「費用」と考えるかで子どもにかける教育費は全く異なってきます。「投資」と考える親はその分自分に対して返ってくると考えて子どもにお金を惜しみなく投じることが出来るでしょう。しかし、「費用」と考える親にとってはもはや「消費」でしかないため教育にお金を投じることをためらいます。

 教育費をどう考えるかは人によりますが、私は子どもが小さいうちは勉強できる環境をつくってあげるのが親、勉強するのは本人だと考えます。その環境づくりだと考えれば教育費は消費ではなく投資ではないかと思います。親が思う以上に子どもは親を見ています。愛情を注いだ分子どもは親に対して感謝の気持ちを持ち続けるでしょう。そうすれば親を見捨てるなどということは到底できないはずです。

逆に言えば、親がいくら頑張っても本人が何も感じ取ることが出来なければ死に金になってしまうのかもしれません。その感性を磨くのも親の仕事なのかもしれません。

 子どもは親が思っている以上に親の背中を見ています。

 本当の意味で今のままで自分はお前の「親」だと胸を張って言える人がどれだけいるでしょうか。子どものためなら自分が身代わりになって死ねる、と言えるくらいになって初めて本当の意味でその子の「親」になれるのではないか、と私は思います。

以前、「龍馬伝」で登場した言葉ですが、実際このことについて考えたことある人と言うのは果たしてどれくらいいるのでしょうか。

実際、「自分は●●をするために生きている」と思って生きている人は少ないのではないでしょうか。

なんとなく毎日を過ごし、死んでいく人生は果たしていいのでしょうか。

私は自分自身なぜ生きているのかまだわかりません。しかし、ひとつおもうことは、人間だれしも幸せになるために生きているのではないか、ということです。結婚することも子孫を残すことも仕事をして経済的生活を送ることもすべては自分が幸せになるためではないでしょうか。

人間の行動にはすべて意味があります。現世に生まれてきたということはそれにはそれで何か意味があるということではないか、と考えます。自分から好んでこの世を去る人がいるでしょうか。同じく、自分から好んで現世に生まれてくる人なんているでしょうか。

子どもは親の希望によってこの世に誕生します。子どもからすれば本当は「誕生」を望んでいなかったかもしれません。もちろん、どのような両親に育てられるかは選ぶことなど到底できません。親もどのような子どもに恵まれるかわかりません。しかし、どのように育てるかは自分たちで考えることが出来ます。

話を戻しまして、いったい何のために生きているのかをどのようにして知ることが出来るのでしょうか。これについては、常に何のために生きているのかを考えながら日々過ごすのが最も近道ではないかと考えます。そうすれば「はっ」と気づくことがあるのかもしれません。それは他人の誰にもわからないことであり、また自分にしかわからないことではないか、と思うのです。



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