ドイツの諺に「母になることは易しいが、母であることは難しい」というものがあります。前半と後半で何が違うのでしょうか。

 

子どもができれば誰でも母になることができます。しかし、母になることと母であることは違います。母であることは自分がその子の母であることの責任が自覚できていなければなりません。これは母親のみならず父親にも言えることではないでしょうか。

 たとえば子どもが問題を起こしてしまったとき、自分がこの子の親であると言う時の親は「親である」ことを自覚しているはずです。

 このように考えれば、子どもに虐待する親や育児放棄する親などは「親になる」ことはできていても「親である」ことはできていないことになります。子どもは親を選べないだけでなく、自ら望んで生まれてくるわけではありません。極端に言えば親の意思でこの世に産み落とされます。生き物は偶然に生まれ、そして必然的に死んでいきます。

 

 子育てに正解はありません。しかし、その子が「生まれてきてよかった」「産んでくれたことに感謝している」と言ってくれた時、そこのに対する子育ては間違いではなかったと思っていいのではないでしょうか。

このブログの今後の更新予定について報告しておきます。


明日から4週間ほどインターネットが使えない環境となるため、公開予約記事の投稿となります。

 

 公開予約記事の公開日は


・3月28日

・4月4日


です。両日とも既に予約投稿している記事が一つずつ自動更新・投稿されます。



今後ともよろしくお願いいたします。

皆さんはどのような夢をお持ちでしょうか。


個人個人でいろんな夢があると思います。また、夢がないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。



思うに、私は自分が考えている未来以上の未来は通常実現することはない、と考えています。言いかえれば、自分が持っている夢以上の現実は実現しない、ということです。

「夢は大きく」という言葉はつまりこの考えの象徴ではないのでしょうか。



 将来は会社員になってとりあえず食べていけるだけの収入が得られれば普通のサラリーマン生活で十分という夢を持っている人がいるとしましょう。その人が社長を目指すなんてことはあり得ないことは容易に想像できるはずです。つまり、想定以上の出世なんてコネがあるなどの例外を除き普通はあり得ないのです。そのための努力をしようとしないんですから。コネなどがあったとしても、楽に、普通に生活できたらいいと思ってる人が仕事の量や責任が増える社長就任の話を受けるなんてことがあるでしょうか。

 学生生活における試験などにおいても同じことが言えます。100点を目指して勉強して初めて90点が取れるのです。120点を目指して勉強してはじめて100点がとれるのです。勉強で得る知識は余ってもいい。足りないと試験で落ちるなど残念なことになるのです。試験に合格すれば家族みんなが明るくなります。しかし、試験に落ちると家族みんなが暗くなります。

 

 教育心理学によると、勉強する時は「次の試験で何点以上取ったら●●を買ってもらえる」などのプラスのイメージを持つより、「次の試験で何点以上取らないと怒られる」などのマイナスイメージを持って取り組むほうが子どもは勉強します。したがってご褒美を予告するより、もしダメならどうなるかを予告しておくほうが子どもは勉強します。皆さんもこのような経験が一度はあるのではないでしょうか。  私は勉強する時は常にマイナスのことだけを考えて勉強します。


「落ちたら進学できない」

「落ちたら就職できない」

こう考えると嫌でも恐怖が襲ってきて勉強すると思うのですがいかがでしょうか。





最後に、私の夢は総理大臣になること。

なぜならそれ以上の地位は日本にないと考えるから。



ばかばかしい、非現実的だといわれるかもしれません。




しかし、誰もこの夢が実現できないと否定することはできないはずです。

来はだれにもわからないんですから。

生きていればいつか苦労する時がきます。ではその苦労をいつするか。



 私は若いうちに苦労するほうが楽だと考えます。遊ぶことなんていつでもできます。むしろ年をとってから遊ぶほうが規模も大きいし楽しいと私は考えています。若いうちの苦労は耐えられますが年をとってからの苦労は厳しいものです。若いうちの脳は柔らかく、吸収が早いので短時間でいろんなことを覚えることができます。しかし、年齢を重ねるごとに脳の吸収力は低下の一途を辿るため、新たな知識を蓄えることが難しくなってきます。学生のうちにしかできないこととは何でしょうか。遊ぶことは学生のうちにしかできないのでしょうか。

 

 私は学生のうちにしかできないことは遊ぶことだとは考えません。学生のうちにしかできないこと、それは勉強することだと考えています。社会へ出て働きだしてから果たしてどれだけ勉強できるでしょうか。毎日仕事で疲れて帰ってきて、その後も勉強できる人は果たしてどれだけいるでしょうか。旅行は働き出してからでも行くことは可能です。休みがないわけではありませんし年末年始に海外へ行こうと思えば行けます。学生のうちに行くといっても時間はあれどやはり金銭的な限界があります。しかし、働きだしたらどうでしょうか。金銭的限界値は大きくなり、より大きな規模で遊べるのではないでしょうか。



 ではそのためにどうするか。自由を得るためにはそれなりの地位が必要となります。そのために学生のうちにいかに努力する方法を知り、身につけることができるか。遊び癖はすぐつきますが、勉強癖・努力癖はそう簡単に身に付くものではありません。人は勉強することを通して努力する方法を学んでいるのです。


 基本的にこの世は「楽」より「苦」のほうが多い。この世は修業の場であるとも言います。そんな中で「楽」を得ようとすればするほど現実的な「苦」が襲ってきます。つまり、究極的な「楽」を得るためには「苦」を受け止め、乗り越えなければ「楽」を得ることができないのです。

 また、「楽」を得るために「苦」を避けようとするとき、同時に「楽」を捨てなければなりません。入試なんかはこの典型例ではないでしょうか。

 結論としては「楽」を捨ててあえて「苦」に向かって行くことで本当の「楽」を得ることができると私は考えています。

 私は大学4年間ほとんど遊ぶこともなく勉強して過ごしました。いろんな知識を得るために教職課程を履修して現在の教育現場の問題点や現状を学び、司書課程を履修することで知識を得る情報源となる図書の仕組みを学びました。教職課程を履修しながら公務員試験に合格することははっきり言ってかなり過酷です。朝から夜まで休みなく授業が組み込まれ、自宅へ帰ってもずっと勉強です。まわりは遊んでいる人がたくさんいます。そんな中でも「苦」を追い求めることで将来、本当の「楽」を得られるという考えがあったから途中で放棄することなくすべて出来たんだと今では思います。

 いづれ努力は報われます。しかし、報われるためには「苦」に向かっていかなければなりません。「苦」を避けるたび「楽」を犠牲にしているとは感じないのでしょうか。

 私は「楽」と「暇」にはある種の恐怖を感じます。次にどんな大きな「苦」が来るのかと考えるからです。

 皆さんは「苦」と「楽」どちらを選択しますか?私は「苦」を選ぶ。なぜなら「苦」無しに本当の「楽」がどんなものかわからないから。

①親「と」子

②親「の」子



①と②の違いに気づかれたでしょうか。「の」と「と」では受ける印象が違います。


「の」のほうが親近感があり、「と」のほうが距離があります。




親が子どもに対して持つ意識として、自分の子供に愛情を注いでいる親ほど「の」という意識が強いのではないでしょうか。


しかし、親が子に対して持っている「の」という考えはいつかは「と」に変えないと子どもは箱入りのまま、小さいままで成長できないのではないでしょうか。

「の」のままだと、どうしても過保護になり、危険だから・心配だからという理由で「かわいい子どもには旅をさせない」という状態に陥ります。それでは自分の子どもの可能性を小さくしてしまうと私は考えます。「これをすると親が心配するから」という理由で何もできなくなります。一人旅をさせることは本当に駄目なのでしょうか。



 私はそうは思わない。本人がしっかりした目的を持ち、責任をもって行動できる年齢になっているなら一人旅をすることはむしろ歓迎すべきではないですか。それは自我、つまりエゴの目覚めであり、知らない土地で様々な人と会話し、交流することがその子にとってどういう影響があるのかをまず考えるべきです。



 そもそも現代の各家庭において哲学や個性というものがなさすぎる。その原因は父親にあるのではないですか。「うちはこうだ」「当家はこういう考え方をする」といったような哲学的思考をする人が少ないのではないでしょうか。昔は当然のようにあった「家訓」が存在する家は果たしてどれだけあるでしょうか。



 自分の子どもがある程度の年齢になるまでは保守主義的思考であるのが普通でありそうしなければならないことのほうが多いが、大学生になり、一定の年齢になったら親が子離れできなければ子どもがかわいそうだとは思わないのでしょうか。

 私は自分の子どもが大学生くらいになったら一人で旅行させたい。ひとりで知らない土地へ行くということは、すべて自分で調べ、行動しなければならないことを意味している。時には知らない人に助けてもらったり助けたりする。そういう経験は必要だと思わないのか。



 親はいつか死にます。その後子どもは自分の力で生きていかなければなりません。そんなとき、自分ひとりで何かするという経験をしたことがなければ子どもはどうなるでしょうか。なにもできない。

 結局、過保護というものは自分ひとりで何もできない子どもにしてしまう。子どもが一定の年齢になったらある程度の距離というものをつくる必要はあるのではないでしょうか。

 私は自分の親と基本的に考え方が違う。したがって対立する。どちらが正しいかは分からない。しかし、自分で考え、やったことは経験として記憶に残る。失敗すれば後悔するかもしれない。だがそれも一つの経験である。親に言われたことだけやっていればいいのであろうか。

 私は自分自身の現在の状態を、子「と」親であると考えますが、おそらく両親とは考えが違うのでしょう。

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結婚して嫁姑間で対立が起これば大きな問題です。

「姑による嫁いびり(嫁いじめ)」という言葉もあります。

嫁姑問題を起こさないためにはどうしたらいいのでしょうか。


人間は基本的に母親というのは自分の娘より息子を、父親は息子より娘を可愛がるという傾向があります。そのため、母親は息子の結婚相手に対して「自分より若い女性に息子を取られた」という意識がどうしても芽生えてしまいます。

それまでは自分の手の中にいた子どもが離れていくような感覚になり、それが元で息子の嫁をいじめたりしてしまうようです。つまり、嫁姑問題は避けて通れないということになります。


しかし、嫁姑間に確執をつくらない方法がないわけでもありません。

嫁と姑の間に息子である男性が入るのです。たとえば、実家に帰る時など、母親と夫婦で面会するような時は男性は嫁に対して厳しい態度をとりつづけます。すると、多くの母親はたとえ上述のような感情を持っている母親でも「どうして自分の嫁に対してそんな態度をとるのか」と自分の息子に対して怒るはずです。そうなれば嫁姑問題は最小限に抑えられることになります。というのも、女性2名の怒りの標的が男性になることで共同意識が発生し、そこで嫁と母親に同じ意見を持たせることができるからです。そうなれば「この嫁は実は悪い人ではない」という意識が出てくるはずです。その意識はその後も続くので確執が起こりにくくなります。


 他によくあるケースとして

「あなたのお母さんに●●と言われた」と嫁に男性が言われたときに

「気にしなければいい」や「ほっといたらいい」

と言う人がいます。


これは喧嘩のもとになります。嫁に、「自分の母親に何も言えない息子」という印象を与えてしまいかねず、頼りなく思われるかもしれません。

自分の親が言ってきていることが間違っている時や、限度が過ぎている時は親だからと言ってうやむやにしてしまうのではなく、はっきり言うべきではないでしょうか。嫁姑問題が起こるということは、それは男性(旦那)側の責任であると私は考えます。

「普通の人」とはどういう人をいうのでしょうか。


私には「普通の人」がどのような人なのかわかりません。なぜなら人それぞれ違い、個性があるはずであってみな同じではないので「普通」という言葉で何人もの人をくくれるはずがない、と考えるからです。


私の場合は「変わった人」や「変人」と言われるとほめ言葉だと受け止めます。

その人が「私」という存在をまわりと同じ人ではなく、ひとりの生きている人間としてその人が自分のことを認めてくれたと考えるからです。逆に「普通の人」と言われると不愉快に感じます。「君と同じような人は世の中にいくらでもいる」と言われているようなものだからです。

そう考えること自体が変だといわれるかもしれません。しかし、物事を正面からではなく斜めから受け止めたり、その言葉の裏に隠された本当の意味を考える必要はないのでしょうか。

私はちょっと変わった人に出会うとうれしくなります。そんな人が本当の意味での「人間」だからです。



では、「常識」とは何でしょうか。

あえて「普通」という言葉を使えば、普通の人は常識のある人なのでしょうか。

たとえ普通の人でも路上にタバコのポイ捨てをしたらそれは常識のある人でしょうか。

電車に乗った際、自分は疲れていてたまたま最後の一席の椅子が空いていたので座っていて、次の駅で老人が乗ってきた場合、「普通」の人はみんな席を譲れますか?残念ながら現代の日本では譲らない人のほうが多い傾向にあります。


私は「常識」と「普通」はイコールではないと考えます。「常識」はモラルの問題です。


変わっている人は非常識な人でしょうか。そんなはずはないのです。

私は自分が思う自分ではなく、まわりに言われる自分が本当の自分の姿だと考えるので、私は変わっている人です。しかし、非常識人ではないと思っています。

高齢者がいれば電車では当然席を譲ります。


常識のある人=普通の人


と考えている人が少なくないと感じます。それは少し違いはしませんか?

金持ちは幸せで貧乏は不幸なのでしょうか。



私はそうは思いません。


金銭的に貧しいが不幸なことではないと思います。たとえ貧しくても幸せで温かい家庭・家族があれば、それはお金で買えるものではありません。

そのような家庭はみなが目指すものであり、そんな家庭を持てるということはある意味精神的に裕福です。



しかし、お金がないことで不幸になることはあります。生きていくために必要なものが買えない、欲しいものがあっても買えないということはあり得ます。逆に金銭的に裕福であっても冷え切った家庭だとどうでしょうか。そこには愛情も何もありません。


もし、どちらかしか選べないとして、

①金銭的には裕福で何の不足もないが家庭は冷え切っている生活と、

②金銭的には貧しいが暖かい家庭をもてている生活

を選ぶとしたらどちらを選ぶでしょうか。



私なら②を選択します。

そういう環境ならば、その人のために何とかしようと頑張れるはずです。

①ならばいずれ終わりがきます。

しかし、②ならばたとえつらくても協力して乗り越えることができるのではないでしょうか。



人生にはいくつもの壁があります。

多くの人は壁を嫌います。超えるのがしんどいからです。超えなくていい方法を考える人もいます。


しかし、それでいいのでしょうか。

私の場合、壁が現れることは考え方によっては幸せなことだと思っています。

壁が目の前にあるということは生きていることの証明であり、それを超えられれば人として一段進歩したことになり、まわりの人より一歩前進したことになるからです。

壁を超えようとする人は努力します。努力しない人はそこで成長が止まってしまいます。


壁が目の前に無くなってしまったらそれは「死」をあらわすと私は考えています。

この「死」はいのちの「死」とは意味が異なります。

生きている限り壁は必ず存在します。それが目の前にないということはもはや死んで「無」になっていることと同じです。つまり、心臓は動いているのに死んでいるのです。


私は自分が興味を持った・持たないにかかわらず、学問のために書物を読むことは嫌いではありません。多くの壁を目の前につくってくれるからです。


解けない問題、それは「壁」です。解けない問題が解ければ「壁」を超えたことになります。学問や書物は物事を知るという「知的快感」を与えてくれるとともに人生における「壁」にも気づかせてくれる素晴らしいものです。知識がないと気付かない壁もあります。

そんな魅力的な「壁」をみすみす見逃すことないじゃありませんか。

昔、ある人に「年収一千万円稼ぐためにはどうしたらいいか」と質問したことがあります。

その人はこの質問に対し、

「年収一千万円稼ぐということは一日8時間労働、週休2日ということで単純計算すると時給はおよそ五千円ということになる。きみにそれだけの対価を払う価値があれば稼ぐことは可能だということになるね。」

と答えてくださいました。

 私はこの言葉にはもっと深い意味があるように思います。つまり、一千万円稼ぐということはどういうことか。自分にそれだけの価値をつけろ、ということです。

そのためにはどうするか。それだけの対価を貰えるような知識を身につけるしかないわけです。

そのためにはどうするか。学問を勉強するしかないのです。

そのためにはどうするか。広くアンテナを張り、さまざまなことを勉強するしかないのです。

そのためにはどうするか。毎日学校へ通ってそこで得た知識や自分で本などを読んで得た知識を自分のものにするのです。


 その人とは当面会っていませんが、最後に面会した時に言われた言葉が、

「当たり前のことを当たり前のようにやっていれば特別になる」

「やめるときはその道で一番になって、極めてからやめなさい。そうでないと次の道でも途中で投げ出してしまいます」ということでした。


 勉強できないことが駄目なことではありません。スポーツなど、生きていくにはさまざまな道があります。しかし、やれば誰でもできるはずの勉強ができずに何ができるのか、ということです。一流のスポーツ選手になるためには他の人とは違う才能が必要です。しかし、勉強にそのような特別な才能は必要なのでしょうか。

 私は、何か苦しいことがあっても、「当たり前のことを当たり前のようにやっていれば特別になる」「やめるときはその道で一番になって、極めてからやめなさい。そうでないと次の道でも途中で投げ出してしまいます」という言葉が頭にあったからこそ続けられたのだと思います。

 当然のことだと思うことを続け、最後までやりきるまでは途中で投げ出すようなことはしない。その人に学んだことは私の財産として今後も大切にしていきたいと思います。