人間関係において損得勘定だけで考えるとどうなるか。

自分にプラスになると考えた人間とは付き合い、マイナスになると考えた人間とは縁を切る。


費用対効果で考えた場合も同じような結果になる。





それでもいいじゃないか、と思う。






自分の足を引っ張りに来るやつはけり落とす、切り離す。


そうしないとただの「お人好し」で終わってしまう。



いつまでもダラダラするのではなく、時には心を鬼にすることも必要ではないか、と思う。
「本気」というものはいつも出すものではない。


そんなことをしているといずれ息切れする。






しかし、逆にずっと出していないといずれは出せなくなる。


本気の出し方が分からなくなるのだ。




つまり、本気というのはたまに出しておいて、いざという時に出せるように備えておけばいいのだ。

「メンタルが弱い」「打たれ弱い」と自分で言う人がいる。



そんな人は日頃から自分に対して何か負荷をかけているだろうか?



あえてしんどいことをしてみる。あえてつらいことをする。
それも中途半端に、ではなくぶっ飛んでやってみる。もちろんクリアできる範囲で。




そうすると、後々に何かつらいことがあっても、
「あの時、ああいうつらい状態を乗り切ったんだから、あれに比べたらこんなこと大したことはない」
と思えるようになる。





「メンタルが強い人」とは、「その場面以上につらい経験をしたことが過去にあり、乗り切った人」ということではないのだろうか?
何か問題が起こった時や面倒なことになった時、


「自分がなぜこんな苦労をしないといけないのか」

と考える人がときどきいます。






そういう考え方をするからいけない。


現世にあって、目の前に現れる試練はその人が乗り越えられるものしか現れないのだから。




「乗り越えられない試練は目の前に現れない」と考えればどうか。




結局、それは自分を成長させるために目の前に現れた試練であり、それを乗り越えられるのに乗り越えようとしないひとは成長できない。せっかく自分を成長させるチャンスなのに。






若いうちは買ってでも苦労したほうがいい。

人間界に生きている以上、試練の連続でありいづれ苦労する。


同じ苦労や試練でも、体力があり頭も柔らかい若いころのほうが楽に越えられるものが多い。




ならば出来るだけ若いうちに苦労しておいたほうが将来何かにぶち当たった時、
「あの時あれだけできたんだから」
と、自信を持って乗り越えられるようになる。







目の前にある試練から逃げない。
試練が見当たらないなら、今の自分がして当然のことをずっと続ける。
そうすればやがてまわりの人間とは違う、本当の意味でこの世に一人しかいない特別な人間になれるのだろう。

この世で最後まで頼れるものは何か。または誰か。





自分の身に何かあった時、その時はまわりの人が助けてくれるかもしれない。


だが、その人は本当に最後まで助けてくれるだろうか。


自分の状況を代わってもらうことはできないし逆に代わってあげることもできない。








自分は自分でしかないのであって他の誰かではないのだ。






つまり自分が最後まで頼れるのは他人ではなく自分自身しかいない。

自分自身に頼るためには問題に対して自分自身で解決できるだけの知識と経験が必要となる。

だから分からないことはすぐに調べて自分のものにする。鉄は熱いうちに打たないといけない。
どんなに無駄だと思っても勉強に無駄なことなどない。いつか必ず役に立つ時が来る。そしてすべては自分の将来に備えることにもなる。









本当に頼りたい時にその人がいないという状況は、自分の中でその人に対する信用をなくしてしまう。
本当に頼りたい時に自分が頼れると思っていた人に裏切られたとき、その溝は永遠に埋めることができないほど深く、埋めることは極めて困難なこととなる。

そしてこのような状況が続くとやがて信用できる人がいなくなる。自分しか信用できなくなる。
それは悲しいことかもしれない。だが、一人で生きる自分を成長させることにもなる。






何がいいのかは分からない。だが、一人で生きて行くこともできない。



しかし私は少なくとも自分以上に信用できるひと・ものがこの世にないことを最近改めて認識した。





他人の偽善を信用してしまうくらいなら、最初から信用しないほうがいい、と思う。
生きているということ


日頃は当然のこととして何も思っていない人が多いかもしれない


しかし、生きたくても生きれない人だっている


自分のことだけでなく、まわりを見て生きてみよう


健康に生きていられるだけで、五体満足なだけでどれだけ幸せなことかわかってくるはず


生きていられるだけで幸せなこと


それ以上に求めるのは贅沢な生き方


それくらいの感覚でいいと思う
本当の「自由」はどこにあるのでしょうか。「不自由」とはどこにあるのでしょうか。




学校をやめたり仕事をやめれば自由になれるのでしょうか。

学校に通ったり仕事をすることは不自由を生んでいるのでしょうか。




一日何もすることはない、これは自由なのでしょうか。

私は「一日何もすることはない」というのは不自由であると考えます。

学校に通ったり仕事をしたり勉強したりすることは目の前に「目標」という壁をつくりだすことができます。





人間は生まれた瞬間から見えない「崖」に向かって走り続けています。走らなければならないのです。
そしていつかは崖に落ち、死ぬのです。



普通ならば崖に向かって走っていればいずれは落ちて死ぬことは分かっているので恐怖を感じるはずです。だから「目標」という壁を目の前につくり、崖を見えなくして壁に向かって走ります。では、「目標」という壁がなければどうでしょうか。走っていく先に崖があることは見えています。そうすれば崖から落ちるという恐怖を感じます。それは本当に「自由」なのでしょうか。



「走ることをやめる」「走ることにつかれた」
それは目の前に「壁」ではなく「崖」をつくりだすことになるでしょう。その結果、崖から飛び降りる、つまり自殺する原因となるのではないでしょうか。


現世は修業の場です。「苦」のほうが「楽」より圧倒的に多いのです。
だから「楽」というものが現れた時、本当に楽しいのではいでしょうか。言い換えれば「苦」は不自由であり「楽」は「自由」ではないでしょうか。





勉強することなど、目標に向かって努力するのは「苦」であり自由な時間を制限されるという「不自由」でもあります。
しかし、それが達成されたとき、たとえば受験を乗り越えたとき、「苦」は「楽」に変わり、「自由」な時間を手に入れます。
しかしまた次の壁が目の前に現れ、自由な時間は制限され、不自由になります。
そう、不自由な時間のほうが自由な時間より一生の中で圧倒的に長い。しかしその不自由を乗り越えれば自由な時間が生まれる。越えれなければ生まれない。これに気付かなければ人生はしんどいものと思うのでしょう。
私は中学生の頃にこれに気付いたため、就職までは不自由な時間を増やすという目標をたて、今まで来ました。
今は「自由」な時間を手に入れました。もちろん不自由な時間のほうが長い。しかし毎日が楽しい。それは自由な時間が一日の中にあるからではないでしょうか。




学生のテストで100点をとれば親や先生にほめられることはあると思います。

点数が悪かったら怒られることもあるかもしれません。


しかし、社会人は違います。

言われたことをやって当たり前、つまり100点のことをすることは当然です。
100点を取れなければ怒られるのは当然です。

言われたことをちゃんとしたのに褒めてもらえない、そう考えるほうが間違えています。


社会人ならば言われたこと+αが求められます。つまり、120点の仕事をして初めて認めてもらえるのではないでしょうか。


120点のことをするためには何が必要か、それは皆さん自分で考えてみてください。
自分で考えてこそ自分のものとなります。





100点をとっても出世はできません。それはまわりの人みんながやってることなのですから。
コネなどの特殊なケースを除き、出世するにはまわりと何か違うものがなければ(持っていなければ)普通はできないのではないでしょうか。
自分が今どの位置にいるのか確認する際、自分より下位の人と比較して満足している人はいないでしょうか。
テストの点数、出世…
しかしそれでいいのでしょうか。それで満足感を得られて満足なのでしょうか。


自分の位置を確認するために、自分より下位の人間と比較したところで何にもならないと私は考えます。そこで満足してしまえばそれ以上の成長は見込めないからです。本当にできる人は自分より上だと考える人間と自分を比較して、自分はまだまだであることを再認識し、努力しています。


上には上がいます。現状で満足すればそれ以上は望めないのではないでしょうか。

 「諸法無我」とはあらゆる存在に実態はないという意味とされていますが果たしてどういうことでしょうか。

 

 私的解釈として諸法無我の意味を一言で言うと、

「自分だけで存在しているものはこの世にはない」ということだと考えています。つまり、まわりの人・自然・社会・過去・現世・未来などすべての関係の中で生き物は生きています。自分だけで存在しているものなどこの世にはないはずです。

 そう考えれば自分のまわりに気を配り、まわりの人や環境を大切にし、まわりのものを大事にできるのではないでしょうか。私が理想の女性像を聞かれたときに「よく気がつく人」と答えるのは、よく気がつく人はまわりの物事がよく見えているし、自分にそれだけ余裕がある。

 

 自分しか見えていない、自分のことしか考えない、そういう人はいずれ無理が来るのではないでしょうか。