2024年3月10日(日)

 

『大森城』→『下切城』→『土田城』 その1 の続きです。

 

次は下切城です。

 

下切城は関ヶ原合戦で徳川家康に味方した岡田善同は可児、羽栗郡内に五千石を与えられた。これによって築かれた。

 

麓にある水の手?(今でも水が湧き出ている)

 

横堀らしき溝

 

竪堀らしき溝

 

削平された場所(後世の竹林の耕作地か?)

 

切岸らしき法面

 

腰曲輪らしき削平地

 

主郭らしき場所(祠が祀られている)

 

主郭からの眺望

 

縄張り図がないので、想定ではあるが削平された人工的な地形はある。

しかし、後世に築かれたものかはわからない。

地形的には城があっても不自然ではない場所です。

 

最後は土田城です。

 

土田城は織田信長の生母である土田御前が生まれ育った城です(諸説あり)。土田泰久の次男である土田甚助が生駒家広の養子となり生駒親重を名乗っていましたが、土田源太夫が明智城で討死すると土田家嫡流が断絶したため、親重が小折城とこの城の城主を兼ねました。生駒氏はその後、織田信長に仕えると、1574年(天正2年)にはこの地を去り廃城となりました。

 

城址東側の可児川

東側の可児川は深く容易に渡河することはできない。天然の深い堀として防御能力が高い。

 

第三峰にある出曲輪

 

第2峰にある曲輪

 

城址南側の巨石群(防御設備に利用していたのだろう)

 

主郭南側の堀切

 

主郭南側の切岸と犬走り

 

主郭北側の竪堀

 

主郭北側の腰曲輪

 

主郭西側の断崖

 

主郭北側の折坂虎口

 

主郭

 

主郭からの眺望

 

小規模であるが天然の地形を利用した要害になっている。
攻城する際は低山登山の装備で登城することをお薦めする。