2024年1月6日(土)
今回は「センゴク 一統記」9巻に出てくる「美濃金山城」と周辺の攻城です。
まずは美濃金山城を攻城する前に戦国山城ミュージアムで勉強です。
美濃金山城縄張り模型
久々利城縄張り模型
戦国山城ミュージアムでは美濃金山城だけではなく、久々利城、大森城、今城、明智城の資料も手に入るので入館する価値があります。
それでは美濃金山城の攻城です。
美濃金山城は1537年(天文6年)、斎藤正義が「烏峰城」として築城したのが最初です。その後、織田信長が森可成にこの城を与えた際に「金山城」と改名しました。信長とともに本能寺で討たれた森蘭丸はこの城で生誕しています。安土城の天守とほぼ同時期に建てられたとみられる複合式層塔型2重2階の天守がありましたが、「関ケ原の戦い」直後の1601年(慶長6年)に破城されました。
米蔵跡
敷地面積が広く、相当量の備蓄ができたのだろうか?
今回の攻城は米蔵跡から三の丸(水の手口)に行く経路を登ったが、現在は使用されていないので、ほぼ獣道状態でした。
水の手道の途中にある巨石
道中に現在の縄張り図には記載されていないが、尾根の端部に物見ができる場所がある。
険しい道中を登っていると岩の上から気配が・・・・・
なんとニホンカモシカではありませんか。自分自身見るのは初めてです。
水の手虎口(桝形虎口になっている)
三の丸大手口門跡
三の丸
三の丸北曲輪
三の丸北曲輪にある水の手(窪地になっていて水が湧いていたのだろう)
出丸
出丸からの眺望
二ノ丸
左近屋敷
大堀切(左近屋敷の東側にあり高さ約10mある)
左近屋敷と東部曲輪を分ける切岸
西腰曲輪
西腰曲輪の竪土塁
西腰曲輪大手口(桝形虎口になっている)
南腰曲輪
南腰曲輪の切岸(高さ約7.5mある)
搦手道
東部曲輪北側の竪堀(搦手道沿いにある)
東腰曲輪
東腰曲輪の井戸跡
東腰曲輪の切岸(高さ約10mある)
本丸
本丸の横矢掛かり
本丸桝形虎口
本丸からの眺望
石垣は経年と破壊で崩れている所もあるが縄張りはほぼ残っている。
縄張り図と香川元太郎氏の城郭予想図を見比べながら攻城すると臨場感が湧いてきて攻城していて楽しい城です。
織豊系城郭の特徴の桝形虎口の石垣が残っていて防御能力の高さがわかる。
その2につづく