2021年8月14日5時2分、パパは旅立ちました。
右上葉摘出手術から5年10ヶ月。
再発確定してから、3年6ヶ月。
パパは頑張ってくれました。
一人でいるのが苦手なママに「ママ一人では寂しくて死んじゃうでしょ。だからパパは頑張るよ」といつも言ってくれてました。
その言葉の通り、最後の最後まで、治療を諦める事なく、パパは頑張る、と。
2021年5月にタグリッソ耐性により、両肺粟粒状転移が認められました。
このままでは、呼吸が出来なくなり、命の危険があるとサードラインの治療が急がれました。
しかし、奏効率は20%程度であるものの、唯一長期生存を期待できる渾身のサードライン、オプジーボ+ヤーボイ+カルボプラチン+アリムタの2回目を投与した際、肺炎となってしまいました。
今となっては、それはシュードプログレッションではなく、薬剤性肺障害でした。
それから、3週間入院し、肺炎治療に専念。その時は酸素飽和度も97程度で、酸素吸入するとことなく、肺炎も落ち着き何とか退院できました。
退院後の2021年8月5日、最後の外来時には、息苦しさは改善していないものの、レントゲンは肺炎の兆候なく、翌週CTの結果を見て、フォースラインを決める予定でした。
ところがその日の夜より酸素飽和度は92へ。息苦しさに、次回診察を待たずに8月10日に緊急入院。
11日夕刻、家族が病院によばれ、呼吸困難と多臓器不全を起こしており、今夜が峠、と。
本人と会話もできるのに、そんなに悪くなっていたの?
肺炎のため、無治療期間が約1ヶ月。がんの進行が驚くほど早かった。11日に見せてもらったCTは両肺真っ白で、素人目にもこれでは、‥、と覚悟を決めざるを得ませんでした。
12日夕刻奇跡的に呼吸困難が改善し、後は多臓器不全が改善すれば、という状態になったので、ホテルに宿泊準備をする為にママが帰宅する際「後は多臓器不全、根性で頑張って」
これがパパとの最後の会話になりました。
ホテルに待機していた13日深夜2時、酸素飽和度が80に低下、苦しいので医療用麻薬を投与してくれ、とのリクエストがパパからあったとの病院からの連絡。
すぐに駆けつけましたが、もう会話はできない。
ママ来たよ、と声をかけたら、ああっ、と分かった様子ではありました。
高2の息子は辛くて、病室に入れませんでした。
それからは、ただひたすら呼吸又は心臓が止まるのを待つのみ。
病院に到着してから、その時まで約24時間、先生が最後まで耳は聞こえるとおっしゃったので、ずっと声をかけ続けました。
「パパ大好きよ」と。
多分、これからパパが生きていたら言ったであろう一生分のこの言葉を伝えられたかな。
今はまだ大きな悲しみの中にいますが、多分パパもそしてママも闘病生活に一片の悔いなく、ベストを尽くしたと思っているので、そういう意味では比較的穏やかに過ごせています。
あまり、皆様の参考になるような今回の経緯は辛くて書けませんが、どうか、どうか、パパと同病の皆様により良い治療法が見つかりますように。
そして、まさに今戦っていらっしゃるであろう、ずっとパパと同じ病勢だったナナホシさんのご無事のご生還をを祈念しております。
これにて、このブログは閉めさせて頂きます。
前回ブログにコメント下さった方々、個別にお返事できずに申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。