おばんです!

 

今朝4時に11.1℃と暖かかった気温は、夜明けとともに下がり始め19時には2.5℃と冷込んできました。

 

 

あの日も、日中は5℃近くあった気温が夕方にはマイナスになり、小雪が舞って一気に冷込んだ事を覚えています。

 

 

あの日、私は職場で仕事中に地震に遭遇しました。

 

 

携帯の緊急地震速報が鳴り出し、間も無く揺れ始めた地震は1分以上過ぎてもおさまるどころかますます強い揺れになっていきました。

 

建物がゆさゆさと音をたてて揺れて、おさまりかけるとさらに大きな揺れが襲ってきて、それまで体験したことがない地震でした。

 

揺れがおさまり、建物の外に避難してラジオをつけると大津波警報が出たと放送していました。

 

その後、建屋の安全を確認し、2階に集まって地震の対応に追われました。

 

早退しようと思いましたが上司の許可が出ず、子供達のお迎えが遅くなると思い、児童館と保育園に連絡を入れようとしましたが、回線が混んでいてつながりませんでした。

 

帰宅時には、いつもの通勤路は通行止にはなっていませんでしたが、海から2~300mの橋を渡ろうとした際に、ちょうど津波が打ち寄せてきて、道路が10cmほど冠水しました。

 

波?をかき分け、車でそのまま突破し児童館には19時過ぎに到着しました。

 

うちの子以外はみんなお迎えが済んでいて、うちの子が一番最後で先生と二人停電で真っ暗な中、ろうそく1本の灯りの中、心細そうに待っていました。

 

上の子供を乗せて、すぐに保育園に!

 

保育園もうちの子が最後で、こちらも先生と二人で真っ暗な教室で、懐中電灯の灯りの中待っていました。

 

19時半過ぎに、自宅に到着しラジオをつけると被害が拡がっていることがニュースで流れていました。

 

幸い、食料の備蓄は多少あったので、ろうそくと懐中電灯の灯りの中、夕食を済ませ、その日は居間に布団を敷いて、いつでも外に出られる服装で寝ました。

 

枕元にはラジオをつけたままにして、懐中電灯、非常持ち出し用品が入ったリックサック、その他を置いて!

 

寝ている間にも、次から次に余震が来て、ほとんど寝れずに夜明けを迎えました。

 

 

子供達もなかなか寝付けずに一晩を明かしました。

 

仕事とはいえ、地震後すぐに迎えに行けなかったために、子供たちは心細い思いをしたようで、震災後2年ぐらいは全く地震の事を話そうとはしませんでした。

 

特に、チビは余震のたびに夜中でも飛び起きて私にしがみついて来るようになりました。

 

子供達が震災当日のことを話すようになったのは3年目を迎えるあたりからです。

 

自分たちの周りでは大きな被害はなかったと言っても、真っ暗な中先生と二人で親のお迎えを待っていた心細さは今でもしっかり記憶に残っているようで、「学校にいる間に大地震が来て津波が来たらどこへ逃げれば良いの?すぐに迎えに来てくれるの?」とたびたび聞かれます。

 

 

9年経って、チビは以前よりますます地震に対して過敏になってきているように感じます。

 

すぐに迎えに行ってあげられなかったことが、心の傷を大きくしたように感じられて、親として申し訳ない思いでいっぱいです。

 

 

 

9年経ち、あらためて、あの日を忘れずに、一日一日を大切に生きて行こうと思います。

 

 

亡くなった方々のご冥福を祈るとともに、残された子供たちの未来が少しでも明るくなることを願っております!!