結果的に、船乗りをやめて水先人となりました。

フィリピンクルーと冗談を言って、楽しくのんびりと航海を続けていたい気持ちが大きかったのですが、収入の大きさが魅力となって水先人の道を選びました。

しかし、なる前に思っていたうん千万円というのは昔の話で、水先人のなり手が少なくなった現在、中小水先区への支援、自分たちで育てるという方針のもと、海技大学校の水先教育コースに出向となっている講師に対する資金補助、また2級、3級水先人への収入補助などで、大手の船長より少し高い、という程度の報酬になっていました。

それでも、出入港という船員として一番濃いところの船を操船できるというのはとても面白く、また自分が見てきたパイロットの方々が、みななぜ輝いて見えたのか今はよく分かります。

 

というわけで、水先人になるまでの過程をご紹介したいと思います。

 

まず、水先人になるには、全国で34ある水先区のうち、自分の希望する水先区を第1希望から第3希望まで選び、選考試験を受けます。

自分の場合、希望の水先区が大手の志望者で埋まっていたので、一年浪人することにして、内航船に乗船していました。

一級水先人は、4月に海技大学校の水先教育センターに入学して、7月に筆記の国家試験があるので、あらかじめ日本船長協会に入会し、過去10年間の試験問題を入手し、事前に勉強しておく必要があります(自分は2年ほど前からぼちぼちやっていました)。

また、TOEICの点数でもふるい落とされるので、併せて英語の勉強もしました。

 

ひたすら勉強していた去年。

選考試験の面接は「海技振興センター」というところが主催して行います。

無事合格すると、その振興センターの「水先修習生」という立場になる。

面接に行くのに首相官邸の前を始めて通りました。

一年浪人して、なんとか希望の水先区に受かると、今度は芦屋にある海技大学校の水先教育コースに入学することになりました。

勉強道具、生活用品を準備します。

先輩から「プリンターを持っていくと便利だよ」と言われたので持っていくことに。

授業は、4月中旬からだったので、4月6日に芦屋まで移動することに。

出かける前に近所でお花見をする。

先輩のお勧めで「ドーミー芦屋」という食事付きのアパートを借りることにしました。

ここを借りる水先修習生の人は多く、同期33人のうち15人近くが借りていました。

部屋はこんな感じで、机の引き出しが出ているのは、勉強をするときに足に当たるからです(笑)。

このようなミニキッチンがついていました。

4月6日にこのアパートに入り、二日ほど食事をとったのですが、食堂でゴホゴホと咳をしながら「喉が痛いんだよ」と大声で話している人(ここは、ある企業の寮となっている)がいて、怖くなってしまい、結局自炊することとなりました。

しかし、芦屋に越した翌日の4月7日に緊急事態宣言がでてしまい、4月中旬の入学が2週間ほど延期となり、代わりに沢山の課題が出ました。

天気がいい日は、ベランダにあるエアコンの室外機の上で勉強。

関西は、テレビで昭和にやっていた番組の再放送、特に好きな時代劇をたくさんやっていたので、見ていて楽しかったです。

日曜日には「太陽にほえろ」を、昼時にやっていたので、勉強の骨休めに焼肉などをつつきながらビール飲みつつ見る。

入学予定の2週間を経っても、一向に感染者が減らず、さらに延期に。

結局2か月も経った6月中旬に入学となりました。

すぐに、山陽垂水にある掖済会病院で健康診断。

帰り道、去年さんざん船の上から見た瀬戸内海、塩屋漁港沖の灯台が見えて懐かしかった。