■ 【詳説】中国共産党暗黒の100年史: 大躍進政策の失敗で2000~3000万人を餓死させた毛沢東 /権力奪回をめざした文化大革命の経緯/鄧小平の改革・開放政策/毛沢東思想への回帰をめざす習近平の野心

 

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■■【詳説】中国共産党暗黒の100年史:毛沢東の文化大革命の経緯と鄧小平の「改革・開放」政策、習近平の文化大革命への回帰

 

 中国の毛沢東主導により、1958年からの第2次五カ年計画の中で掲げられた鉄鋼、農作物の大増産運動のスローガンが大躍進政策。ソ連に依存しない重工業化と人民公社建設をめざした。しかし独自方式による鉄鋼生産の失敗、集団化の強行による生産力の低下などによって失敗し、毛沢東に対する批判も起こった。毛沢東は批判を社会主義路線に対する否定ととらえ、反撃を目指すこととなった。毛沢東はイデオロギー(政治思想)優先主義者で、人民公社などの農業の集団化は、ソ連のスターリンがやったコルホーズ・ソフホーズなどを模範としたもので、その失敗で数千万人を餓死させた。これが有名な「大躍進」政策の一環としておこなわれた。

 

●「大躍進」政策(第二次五カ年計画のスローガン)

 

 1958年5月、中華人民共和国において、毛沢東の指導する中国共産党が打ち出した「社会主義建設の総路線」のことで、第2次五ヶ年計画にあたる。そのスローガンが「 大躍進」政策。それはソ連型の社会主義建設ではなく、中国独自の方法として工業では西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用することと、農業の集団化を進めるため【人民公社】を建設することを掲げた。工業では鉄鋼業生産が特徴的であったが、品質は軽視され、もっぱら増産のみが強調された。鉄鋼の生産を工場ではなく農村に粘土で釜を築いて鉄を溶かして鋼鉄を造るという【土法高炉】が全国の人民公社で60万箇所建設されたといわれる。これは西洋技法と伝統技法を融合させたものだと言うが、実際には粗悪な鉄鋼しか造ることが出来ず実用にはならなかったばかりか、燃料の石炭を大量に使ったために本来の工場での燃料が不足して生産が停滞するという逆効果をもたらした。 

 人民公社は農村を集団化し、土地・農具・家畜を公有として、生産は労働に応じて分配するという、共産社会の理想を現実化するもので、上からの号令で急速に普及したが、次第に農民の生産意欲の減退が表面化して生産量が落ちこみ、途中から【生産請負制】を一部導入するなどの修正を余儀なくされていった。

 

 「大躍進」運動の背景として中国をめぐる国際関係の悪化があった。1958年の金門・馬祖砲撃(台湾海峡危機)でアメリカとの緊張関係が強まったが、平和共存路線をとるソ連(フルシチョフ政権)は中国への核兵器と軍事援助を断り、相互の不信感が増大した。また1959年の中国支配に反発するチベット反乱を契機に起こった中印国境紛争でもソ連はインド支持を表明した。ソ連は中ソ技術協定破棄に踏み切り、1960年には中ソ対立は決定的になった。このようなソ連との関係悪化の中で中国共産党が独自の工業化、食糧増産を実現しようとしたことが「大躍進」運動の背景であった。

 

★「大躍進」運動の失敗と2000~3000万人の餓死者(山川出版の世界史用語集に記載.しかし、一説によると4000万人以上が餓死したとする説もある)

 毛沢東の提唱した大躍進は至上命題とされたため、地方幹部の中には、上から与えられた現実離れした生産目標を完成させるために、さまざまな不正を行うものも多くなった。大げさな目標を立て、実際とかけ離れた数値が艤装されて成果とされた。また人民公社という理想の共産主義社会は実際には個々の農民の労働意欲を奪うものであったので、生産効率は悪化していった。「大躍進」の失敗は次第に明らかになり、1958年11月には毛沢東自身もそれに気付き、「共産風の大げさな傾向は是正しなければならない」とまで発言した。毛沢東と中国共産党幹部はその失敗の理由を政策そのものの誤りではなく、自然災害と重なったことと国際関係の悪化など専ら外的要因に求める傾向があった。文化大革命後の中国共産党は、この大躍進運動を建国以来初めての深刻な誤りであり、客観的な規則と状況をかえりみない盲目的な指導の誤りが露呈したものとして総括している。

 

 毛沢東は急速な人民公社化の行き過ぎを認め、1959年4月の第2期全人代第1回会議では国家主席を【劉少奇】と交代した。ただし、党主席には座り続け、次第に権力奪回の機会をうかがうことになる。1959年7月に開催された中国共産党の首脳会議である廬山会議では、国防部長であった彭徳懐が大躍進の失敗を批判し、毛沢東の誤りを指摘した。毛沢東は激怒して彭徳懐を国防部長から解任し、かわりに【林彪】(りんぴょう)が任命された。

 

 1959年から61年にかけて、中国全土は異常な食糧難に陥った。1959年の食糧生産は1億7千万トン、60・61年には1億4千万トン台となり、1951年の水準まで下がったが、この間人口は1951年より約1億人増加していた。食糧不足とともに大躍進での過労や栄養不足のため、特に生産力の低い地域で多くの餓死者が出た。1982年の国勢調査をもとにした推定では、その死者数は1600万から2700万であろうという。これについては次のようなまとめがある。

  ※(引用)まだ生産力の基盤が弱い中国の現実の諸条件を無視した大躍進の諸政策、とくに重工業優先政策と、農村における「共産風」や、幹部の押しつけへの抵抗として生じた農民の生産意欲の減退という人災を基本として、これに59年から61年までつづいた自然災害(華北の旱害と華中・華南の水害)、ならびにソ連の援助打ち切りが重なって生じたものである。<『中国近現代史』1986 岩波新書 p.228>

  ※(引用)1960年前後の北京で少年時代を送り、1966年の文化大革命で紅衛兵の先頭に立つことになった張承志の回想がある。1960年前後、中国は全国にわたって三年に及ぶ恐るべき飢饉に見舞われた。飢饉は、首都北京にも容赦なく襲いかかった。学校では体育の時間が無くなり、授業も最低限まで圧縮された。人々はみな、肉の   ようでもあり、凍ったあとでとけて柔らかくなった果物のようでもある代用食を食べた。私が通っていた北京第61中学では、友達が持ってくる弁当でいちばん贅沢なのが   煮た大豆だった。どの家でも簡単な秤を造り、一人分ずつの主食を計ってそれぞれが別に煮て食べた。おとなは自分の分をへずって子どもたちに少しでも多く食べさせようとした。母は、栄養失調でからだ中にむくみが出た。<張承志『紅衛兵の時代』1992 岩波新書 p.6>

 

★ 「調整政策」(一部市場経済を導入):劉少奇と鄧小平によって実施

 1960年冬、中国共産党は「大躍進」政策の停止を決定、それ以降は国家主席の劉少奇と、それに協力した鄧小平によって、「大躍進」による経済の混乱、生産力の低下を是正するための【調整政策】に転じ、重工業の発展テンポを押さえ、農業と軽工業生産の回復をはかることとなった。1961年には農民の生産意欲を高めるため、農民の家内副業を認め生産物の自由市場での販売を認めた。1962年1月の中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会といわれる)では、毛沢東は公式に大躍進の失敗を認め、劉少奇・鄧小平による【調整政策】が承認された。それは人民公社ではなく村落規模を基礎とする生産隊に土地所有権、家畜と農具の所有権を帰属させて集団生産の基本単位とするなどの改正を行ったもので、これらの施策によって農村経済は回復に向かい、64年には国民経済全般が回復基調に転じた。

★ 党内対立の激化:毛沢東路線と劉少奇路線の対立

 1962年1~2月、中国共産党は全国の幹部を集め大躍進運動の総括を行った。劉少奇は党中央を代表して運動の失敗の原因として、一つは自然災害をあげたが「非常に大きな程度において」、党の政策の誤りと党中央の指導に責任があるという報告を行った。鄧小平、周恩来などの幹部もそれを認めたが、毛沢東は責任は最高指導者である自分にあるとしながら、この失敗を理由に農業の集団化をやめるのは社会主義建設という党の掲げる大目標に反すると考えた。こうして「大躍進」の評価をめぐって、毛沢東と劉少奇、鄧小平らの間に大きな食い違いがあることが明確になっていった。国防部長として登用された解放軍代表の【林彪】は、「毛主席の思想はすべて正確である」から、大躍進が成果を上げなかったのは「毛主席の指示どおりに事を運ばず、その意見が尊重されず、あるいははなはだしく妨害されたからだ」と主張した。このように大躍進の失敗によって生じた経済をどう建て直すか、また国家の基本路線をどこにおくか、をめぐって1960年代は毛沢東路線と劉少奇路線が暗闘を続け、その後半から毛沢東が一気に攻勢に転じたのがプロレタリア文化大革命であった。

 

★プロレタリア文化大革命(1966~77年)の発動

 

 文学者ら文化上の反革命批判から始まったので、文化大革命と呼ばれるが、実態は毛沢東の権力奪回闘争。2000万人近い学生らの紅衛兵を動員して大衆的運動を盛り上げ、資本主義に傾いた党幹部や守旧派らを実権派(走資派)として厳しく糾弾した。権力闘争の側面が強く、権力を握った毛沢東夫人の江青ら四人組などの急進的な政策によって中国は大きく混乱し、経済は停滞した。「造反有理」「愛国無罪」を叫んで紅衛兵が全国的に暗躍ししたため、社会は大混乱に陥った。教師や医師らが糾弾の対象となったため、学校や病院の大半が機能しなくなった。76年の毛沢東の死去から収束に向かい、1981年から鄧小平が「4つの近代化(現代化)」を国家目標に掲げ、「改革・開放」政策に転換したその後の中国では、文革は否定的にとらえられている。

 

 プロレタリア文化大革命(文革)とは、広義には1966年から76年の毛沢東の死に至る時期に見られた毛の理念の追求、ライバルとの権力抗争といった政治闘争に加えて、それらの影響を強く受けながら、暴力、破壊、混乱が全社会を震撼させ、従来の国家や社会が機能麻痺を起こし、多くの人々に政治的、経済的、心理的苦痛と犠牲を強いた悲劇的な現象の総体を称する。文革の犠牲者は、正確にはわからないが死者1000万人、被害者1億人、経済的損失は約5000億元とも言われるほどであった。「紅衛兵」、労働者、農民らをまきこんだ激しい政治闘争を指す。年表での文化大革命の出発点は、1966年8月1日から始まった中国共産党8期11中全会において、8月8日に採択された「プロレタリア文化大革命に関する決定」に置かれている。

 

★ 林彪事件:文化大革命で毛沢東の後継者に指名されるが1971年に失脚、逃亡途中で事故死。

 日本軍の侵略に対する抗日戦争(日中戦争)期の八路軍の指揮官として活躍し、中華人民共和国建国後は人民解放軍を背景に中国共産党の中枢に参画した林彪は、(朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。)特に1959年、共産党幹部の廬山会議で毛沢東の大躍進政策を批判した彭徳懐国防相が解任され、その後任の国防相となってから、毛沢東の忠実な追従者となり、「毛語録」を兵士に配ってその宣伝に努め、毛沢東の後継者に指名された。また毛沢東の周辺の江青ら【四人組】と結んで、文化大革命推進の中心的役割を果たした。1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。 しかし、わずか2年余り後の1971年9月に、毛沢東暗殺クーデターを企てて失敗し、厳しく対立していたソ連へ空軍機で妻子とともに亡命を試み、モンゴル上空で墜落死した(九・一三事件)。この林彪事件の経緯が正式に発表されたのは2年後の1973年8月で、多くの謎に包まれている。

 

★ 第1次天安門事件(1976年4月):周恩来の死を悼んで献花した天安門広場の民衆を四人組が弾圧   

 1975年、政権に復帰した鄧小平による「全面整頓」と言われる経済再建政策が開始され、文化大革命によって停滞した経済回復が図られた、翌76年1月に周恩来の死去とともに鄧小平が再び失脚し、そのリーダーシップに期待していた庶民は不安を募らせ、3月下旬に南京で「周総理擁護、張春橋打倒!」の貼り出され不満が表出した。張春橋とは四人組の一人で文化大革命を推進する中心メンバーであった。やがて4月4日の清明節に最高潮に達し、天安門広場に30万とも50万ともいわれる民衆が集まり、献花をし、詩を朗読するなどして周恩来を偲びつつ、次第に四人組批判の声が強まった。それは建国以来初めての民衆の自発的で大規模な異議申し立て行為であった。

 事態を重視した中共幹部(四人組)はこの動きを「鄧小平が準備した反革命事件」と断定し、4日夜から5日にかけて1万の民兵と3000の武装警察を動員して民衆の抗議行動を弾圧した。7日、中央政治局会議は毛沢東の提案で、華国鋒の党第一副主席の就任、鄧小平の全職務の解任を決定した。事件がおこった当時は「反革命」とされたこの事件は、76年9月に毛沢東が死去し、四人組の後ろ盾が亡くなると新たに首相となった華国鋒は四人組を逮捕し、1977年に文化大革命の終了を宣言した。1989年の第2次天安門事件と区別する意味で、これを「第1次天安門事件」と呼んでいる。

 

★ 毛沢東の死去と文化大革命の終焉

1976年9月に毛沢東が死去し、文化大革命の終了の契機となった。大躍進政策や文化大革命などの誤った指導が問題とされているものの、現在も中華人民共和国の建国の父としての権威は保ち、天安門に大きな肖像画が掲げられている。毛沢東の功績を完全否定することは中国共産党の終焉を意味することにつながるからだ。

 1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去し、7月28日には唐山地震が起こり死者24万という大惨事が起きた。まだその動揺が収まらないなか、1976年9月9日、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。毛沢東の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。華国鋒の就任は毛沢東の指名があったとされているが、そのもとで文化大革命の継続か方針転換か、をめぐる激しい党争が始まった。華国鋒政権の手によって復活した鄧小平の影響力が強まり、中国は「改革・開放」路線をとることとなり、1977年に文化大革命は終了を宣言した。1980年には鄧小平がかつて文革を支持した華国鋒を失脚させ、1982年には中国政府は正式に文化大革命の誤りを認め、失権した人々の名誉を回復した。こうして中国は「改革・開放」路線を進め、さらに資本主義経済の導入へと言う大転換を図ることとなる。

 

● 1980年に鄧小平が実権を握り、「改革・開放」路線に転換

 1976年9月9日、82歳の毛沢東が死去、江青ら四人組は後ろ盾を失った。かれらの恣意的な政権運用については批判が強まり、文化大革命による生産力の減退、経済の混乱などに対する不満も強まっていた。そのような情勢の中で、1977年8月、中共第11回全国大会において、華国鋒は「プロレタリア独裁下の継続革命は偉大な思想」と毛沢東路線を讃えると同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとして「第一次文化大革命が勝利の内に終結した」と宣言し、「四つの現代化建設」(近代化とも言う)を掲げた。

 この間、1977年に復権した鄧小平の指導力が強まり、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す「改革・開放」路線を打ち出した。79年には米中国交正常化を実現させ、鄧小平自ら渡米して科学技術協力協定などを締結、改革路線を定着させた。1980年には鄧小平は華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同年、劉少奇は名誉を回復し、それと並行して「四人組裁判」が実施され、江青・張春橋・陳伯達らに死刑や懲役の判決が下された。これらは「文革否定」の決定的な動きであった。

 

●米中国交正常化

1971年のキッシンジャーの中国訪問から始まった米中国交回復の動きは、72年のニクソン大統領の訪中を経て、79年のカーター大統領の時に実現した。1971年のキッシンジャーの中国訪問から始まった米中国交回復の動きは、1972年2月のアメリカ大統領ニクソンの訪中による米中共同声明で一定の成果を上げた。この時に米中双方による事実上の相互承認が行われたが、カーター大統領と鄧小平との間の交渉によって、1979年1月に正式に米中国交正常化が成立した。この結果、アメリカは台湾の中華民国政府と断交した。この交渉では台湾問題が最も厳しい交渉となったが、結局アメリカは台湾からの駐留軍を撤退させる代わりに、武器援助は続けることで妥協が成立した。その結果、アメリカは台湾の中華民国政府と断交し、1980年には米華相互防衛条約(1955年)も失効した。これで中国の建国以来の脅威となっていた台湾海峡危機は解消されることになったが、21世紀になって中国の大国化し、南シナ海・東シナ海進出が顕著となり、香港民主化弾圧などの影響で、トランプ政権、ついでバイデン政権も台湾防衛強化に転換し、再び緊張が生じている。 

 

● 「改革・開放」路線

 1978年12月18日の三中全会における鄧小平演説は、内外に中国が「改革・開放路線」をめざして新たな段階に入ったことを宣言するものであった。それは政治では共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入するものであった。具体的には人民公社の解体、農産物価格の自由化などの国内経済の自由化であり、外国資本や外国の技術の導入を認めることであり、そのような開放経済の拠点として「経済特区」と設けることであった。

 1979年から80年にかけて、鄧小平政権の下で中国は大きく路線を転換させ、改革・開放路線、言いかえれば共産党一党独裁の元での資本主義の導入という新たな試みに着手した時期となった。鄧小平の中国が改革・開放政策に転換した。この1979年は国際政治情勢を激変させた年であった。世界では1979年1月のイラン・イスラーム革命からイスラーム世界の激動が開始し、同年12月のソ連(ブレジネフ政権)のアフガニスタン侵攻の失敗はソ連崩壊への導火線となった。またソ連のアフガン侵攻に抗戦したムジャヒディン(聖戦士)の間からタリバンやアルカイーダなど新たなイスラーム原理主義組織のテロが生み出される要因ともなった。また1979年にはイギリスでサッチャー首相が登場し、「 新自由主義」の導入が図られるなど、「1979年」はあるひとつの時代が終焉したことを示す転換点となったともいえる。

● 最高実力者として

 鄧小平政権下で中国独自の社会主義の建設という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。1982年9月、党大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現・・・などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「トロイカ体制」を成立させた。同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。1950年代から続く中ソ対立についても、1989年5月にソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問して鄧小平と会談、中ソ関係の正常化が実現した。

 

● 四つの基本原則の堅持

 鄧小平の台頭は、経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化、に進むのではないか、という期待を人々に抱かせた。しかし、鄧小平は「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説した。それは、

 1.社会主義の道

 2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)

 3.共産党の指導

 4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想

の四つである。

共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とする「四つの基本原則」によって、民主化運動家の魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢を貫いた。以後、文学・思想界でも保守派の「ブルジョア自由化反対」と改革派の主張の対立が続く。

 

● 1989年の第2次天安門事件の弾圧

 中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任した。改革開放路線の中で成長した市民はさらに民主化を求め、鄧小平政権との緊張感が高まっていった。1989年に胡耀邦が死去すると、学生・市民がその死を悼んで追悼集会を開催した。1989年6月4日、鄧小平は学生らの民主化デモが反政府暴動に発展することを恐れて一挙に人民解放軍を投入してあ武力弾圧をおこない、第2次天安門事件が起こった。数千人の死傷者が出たと推測されているが、詳細は明らかではないが、この民主化デモに参加した学生らの多くはのちに当局によって検挙されている。その戦車などの軍事力を用いた人権弾圧の姿勢は世界に衝撃を与えた。1989年は東欧革命がおこった年であり、同年11月にはベルリンの壁が崩壊し、翌年東西ドイツが統一してドイツ連邦共和国が誕生し、1991年にはソ連邦が崩壊するなど東側陣営の政治体制が激変していた当時である。そんな社会主義諸国の崩壊の中で中国だけは共産主義体制の生き残りをかけたわけだ。それが1989年の第2次天安門事件である。

 

 鄧小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。第2次天安門事件で中国の開放路線は一時停滞したが、鄧小平は後継者として実務派の江沢民を指名した。江沢民は改革・開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。鄧小平は1997年に死去したが、江沢民・胡錦涛・温家宝というその後継者たちは、鄧小平の二面性をそのまま継承した。そこで明確になったのが、社会主義体制を維持したまま、資本主義を導入するという、「社会主義市場経済」という大胆な変化をとげようというものであった。それは言い換えれば、ソ連の末期にゴルバチョフがやろうとして失敗したペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)の教訓から、共産党政権の維持のため断固として政治の自由化を拒否し、情報を隠蔽し、個人情報を党が管理し、もう一度資本主義的な経済から貧富の格差是正の社会主義体制に回帰する方向に舵を切らざるえない状況が生まれつつある。

 

● 習近平が画策する第二次文化大革命

 21世紀の中国は、現在の習近平政権に見られるように社会主義市場経済の枠組みを超えた資本主義大国化が進む一方、反比例的に政治の強権化が強まり民主化が押さえ込まれているようだ。その矛盾を隠すように軍事力の増強による覇権の拡張へと向かっているとも感じられる。鄧小平の時のボタンの掛け違いが、やがて大きな混乱となって爆発するのではないか、事実、2021年、習近平はかつての文化大革命を再現するような社会統制経済を画策しているように見える。