そもそも、私は、成人の年齢に達する頃には、

生きていく以上、

本当の友だちが欲しいと思っていました。

その当時考えていた本当の友というのは、

本音と建て前を使い分ける

友ではなくて、打算や利害にとらわれない、『胸襟を開いて、

話し合える(心の深い部分を打ち明けてくれる)』

そして、心の通じ合える友達を求めていました。

 

 自分にとって、親友と言える友達が欲しいと

思っていました。それこそ、伴侶になってくれるような

女性が居たらなとも夢見る様に考えていました。でも

そんな自分にいつも寄り添ってくれる方は、見つかりませんでした。

 

どうしたら、そういう友と出逢えるのだろうかと、文通をしたり

もしました。

頼み込んで友だちをドライブに誘ったりもしました。

 

 けれども、十九歳にして酒浸りの毎日でしたから、勉強していながら

乱れた生活でした。私は、自分が「ごめんなさい、すみません、」

という言葉が言えなかったので、そんな言葉を言えば、弱く見られる

と思っていたのです。とにかく自分を正当化する、自分は正しいから

とにかく天狗になっていました。外では、いい子を演じていました。

 

 不条理だと、イエスキリストに出逢う前の私は、机の前に

坂本龍馬のことばだったでしょうか。

「世の中の人が何を思わば思え、我がなすべきことは我のみぞ知る」

という言葉を机の前に貼っていました。

 

 エゴイストでした。自分の思いどおりにならないから、怒る、短気になる

そして、都合の良い嘘を言ってごまかすと、友達は一人、二人と離れていきました。

自分のしていることが正しいんだ、思いこんでいました。

何も知らない自分でした。

 

 そして、なんと友達がいない、孤独に浸り、社会の事も知らない、大人の人と

話したことがない自分でした。寂しさのあまり、ドライブに誘っていました。

ドライブと言っても、何にも話さず、ただ乗せて走るだけでした。

そして一人で車に音楽を流しながら車が友だちという

位までなりました。お金があればと、毎日遊技場に通っていました。

暗く、虚しく、寂しい青年時代でした。

 

 それでも、私は、キリスト教と出逢いました。キリスト教の中の、「赦すこと、

与える事、愛すること、本当の生きる道を見いだしました。自分が見出したというより、

神さまが私を、信仰の道へと導いてくださった。

 

 『自分は何が欠けているのだろう、なぜ友達は離れていくんだろう、自分には、

恐れがあるんだろう』と悩んでいました。携帯もありませんから、思い悩む以外ない、

毎日、思い悩みました。私にはそのころ、欠点がありました。人の話を聴かない、というよりも

聴けない、話が理解できない、話せない、世間話などしたことがないんです。

 

 そうなると、社会生活は営むことができないのか、と言った時に、私は人に喜ばれる生き方

本当の生きる道を探し求めていました。

 

 そして、手を差し伸べてくれたのが、聖書に記されている、出たお一人の、唯一の神さまでした。

私の罪を赦して、神との関係回復を、和解をなしてくださる、イエスキリストを私に贈って

下さいました。そして私のためにイエス・キリストは、身替わりとなって十字架で死んでくださったのです。

私は、就職前には、かなり自分の中に、罪意識、罪の重荷が重くありました。重荷を背負っていたのです。

こんな罪責感を負って、これから人生を生きていくなんて耐えきれないと思っていた時にこの

イエスキリストの十字架が私を罪から救ってくださる、という福音を牧師先生より教えていただきました。

「ものみの塔」の家庭集会に集う予定の一週間くらい前だと記憶しています。私は命拾いしました。

そして、イエス・キリストと救い主として信じました。罪は赦され、神の子とされる

そして永遠のいのちがあたえられる、子の御方に賭けてみました。今は、信仰による喜びで一杯です。

イエスキリストは、死んで終わりではなく、蘇られた、死から三日目に復活された方です。初穂として

死に勝利されたお方です。死はもう恐れではありません。

 

 (私のキリスト信仰に至るお証です。プロテスタント)