2021年7月1日 FB投稿記事より
今日から七月に入りましたね!
七月は文月(ふみつき)、七夕月ともいい、陰暦では初秋の節で、天高く清明に澄み渡り、百穀は豊かに実って、人々の食欲も盛んになる季節とされています。
それでは今月の俳句を
「 一点の 偽りもなく 青田あり」 山口誓子作
意味:この見渡す限り青々とした水田の美しさは、まったくもって美しく、私はとても感動しています。
さて今月の「御朱印・法華経二十八品の心」は法華経【信解品第四】をご紹介いたします。
前回ご紹介しました法華七喩の一つである、
長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩えのお話しが出て来ます。
三車火宅の喩が説かれた「譬喩品」の教えを聞いた四大声聞の須菩提、迦栴延、迦葉、目連は喜びのあまり、思わず踊りあがり、座から立ちあがって衣服を整え、右の肩をあらわにして、右の膝を地につけ、一心に合掌してお釈迦様の尊顔をあおぎ見て次のように告白しました。
「我々は仏弟子の中の先輩で、年もかなりとっています。もう世間の悩みや苦しみを離れているので、これ以上努力する必要もないと思い、仏の無上の智慧を求めようとしませんでした」と。
しかし、舎利弗尊者への授記をまのあたりにして、自分たちもさらに菩薩行をつんで人々を救うために役立ちたいという大いなる決心がつき、深い喜びが湧いたのであります。
「無量の珍宝、求めざるにおのずから得たり」と四人は告白し、そこで「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもってお釈迦様に自分たちの心からの理解を示したのです。
法華経はお釈迦様の八十年のご生涯の晩年に霊鷲山(りょうじゅせん)で説かれた教えでありますが、法華経以前の経典には出家の仏弟子である声聞や縁覚の二乗と呼ばれた人々が成仏をするという経文はありませんでした。
以前から、二乗は成仏できないと言われていましたが、しかし「信解品第四」の経文から見れば、彼ら(二乗)は成仏できないのではなく、成仏(仏に成ること)を自身から望まなかったのです。
法華経二十八品を前半と後半に分けて前半を迹門(しゃくもん)、後半を本門(ほんもん)と呼びますが、迹門の中心テーマが「二乗作仏」なのです。
四人の声聞は、今までの自分たちの修行をかえりみて窮子になぞり、彼らは仏弟子の中でも一目を置かれた阿羅漢(あらかん)とよばれ、既に自分たちが至るべき悟りの境地に達し、これ以上に求めるものはないと思っていたのでした。
つまり窮子とはお釈迦様が「お前たちは仏の子である」という言葉の意味がわからず、現在の境遇に甘んじているその心持が憐れな存在であったと告白しました。
そして、無量の珍宝とは目の前にある、すべての衆生のための無限の財宝であり、その財宝を求めようともしなかった我々が、父親であるお釈迦様の導きによって、しっかり受け取ることができたと言うのです。
一切の人々と共に生き、一切の人々を救おうという悲願を起こした仏弟子たちは、ここで初めて真理の世界の大王である仏の教えがわかったのです。
すでに人々のために役立とうと決心したのである以上、四人の仏弟子は声聞でなく菩薩になったのです。声聞の悟りを得たことは、大いなる菩薩としての力を発揮する為の方便、手段であることがはっきりとし、自分たちこそ「真の声聞」「真の阿羅漢」であるとの自信をもって言わしめたのは、彼らが菩薩道に目覚めたからであります。
お釈迦様は我々衆生の気持ちや欲望をよく知っておられ。その欲望に応じて教を説いて頂いています。能力のすぐれた者に対しては高い教えを、能力の低い者に対しては低い教えを説きながら、最後には一乗の教えをお示しになったのです。
自分のための修行から、他人を生かし目覚めさせる修行に転じさせるところに「法華経」のすばらしさがあるのです。この信解品はひたすら自己の救済と解脱に生きた声聞という人々が、いかに大いなる道、菩薩の道に目覚めていったかを彼らの口をかりて語りつづったものなのです。
無 上 宝 聚
不 求 自 得
(法華経・お題目を唱えることで、求めていないのにこの上ない宝が自然と手に入るとの教えです。)
皆様も素敵な良いことがありますように♪
妙法蓮華経「信解品第四」より抜粋
我等今日 聞仏音教 歓喜踊躍 得未曾有
仏説声聞 当得作仏 無上宝聚 不求自得
我等今日 仏の音教を聞いて
歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり
仏声聞 当に作仏することを得べしと説きたもう
無上の宝聚 求めざるに自ら得たり
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝 合掌南無妙法蓮華経
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