拝啓。
年の瀬が寒気と共に忍び来る音が聞こえる今日この頃、いかがお過ごしだろうか。
日々冴えない毎日を悶々と送り、こんなことならいっそ清水の舞台から飛び降りてしまえば、くだらないルーチンに彩りが加わって世界の見方も変わるかも知れないのに、と思わずにいられない俺です。
いつか、いつかやろうと、と伸ばしに伸ばしてきた恋文の技術の感想、いつかって今さとぐうたらにピリオドを打つべくキーをタイピングすることとした。
二日間に渡って合計四時間ぐらいかけて書いてしまった。
長文おつ、で回れ右せずに最後まで読んでもらえると嬉しい。
そこそこ面白く書けている。
はず。
恋文の技術は、希代の才能森見登美彦が産み出せし最高傑作である。
これで終わっては話にならないのでもう少し続けるが、かつて俺は夜は短し恋せよ乙女で森見登美彦を散々にこき下ろした。
それは事実だ。
吐いたツバは飲めんが、天に唾棄したそれを甘んじて浴びてべとべとになっても良い。
つまらないは悪だが、面白いは正義だ。
面白けりゃー、それでいいのよ。
だから作品が面白ければそれでいい。
好きな作品を書く傾向のある作家はもちろん追いかけるが、合わないと思った作家でも作品が面白いなら手のひら返すよ。
天の邪鬼ですもの。
森見登美彦の何が嫌いって、その持って回った鬱陶しい文体が気に食わない。
それが好きだという人もあろう。
でも俺は苦手なんだ。
ところが、それが恋文の技術に限っては異なる。
森見登美彦の持ち味たる鬱陶しい文体の印象が百八十度転換する。
恋文の技術はいわゆる書簡体小説である。
それがどういうものかというと、台詞も地の文もなく、登場人物が誰かに宛てて書いた手紙の体裁を取った小説だと言える。
生憎と、他にこういうジャンル分けされる作品を読んだことがないので、そういうものだとしか説明出来ない。
その書簡体小説とやらと、森見登美彦の評価になんの関係があるのか。
大ありである。
恐らく誰でも似たような経験があると思うが、対面や電話などの会話以外の手段、特に手書きの手紙で人と連絡を取るとなると常と違って改まった語調の文を書くのではないだろうか。
今まさに口語とは異なった文章を書き綴っているので、俺には心当たりがありまくる。
まさにそれ。
森見登美彦の鬱陶しい一人称の文体が、語調が改まりがちな手紙というフィルターを通して読むことによって、ちょっと奇をてらっておちょくってやろう、という手紙の書き手の茶目っ気に感じられるのだ。
手紙という要素が加わることで、俺の中でマイナス評価だった文体が、見た目はそのままに性質だけを裏返してプラスになったのである。
この組み合わせの妙は見事と言うより他はない。
最早諸手を挙げて賛美することしか出来ない。
鬱陶しい森見登美彦万歳。
ちなみに最大級に褒めてるんですよ鬱陶しい森見登美彦万歳。
先に恋文の技術が森見登美彦の最高傑作である、と断言したのもここに由来していて、森見登美彦が芸風を変えずにこの文体で書き続ける限り、鬱陶しい文体がプラス評価になるのは書簡体小説たる恋文の技術だけなので、この作品より良いものが今後出ることはないからである。
もし続恋文の技術とか、別な書簡体小説を森見登美彦が書いたとしたらその時は、野郎味を占めやがったな、という理由でその作品の評価が下げられるだけ。
つまり恋文の技術は不世出かつ空前絶後なのである。
本編は主人公守田一郎が文通修行と称してあちこちに手紙を送り続けるだけの内容となっている。
往還はしない。
完全に一方通行だ。
書き手は常に守田一郎で、相手からの返信の内容は、彼が手紙の中で引き合いに出してくることしかわからない。
なのにいや、だからこそ彼は生き生きとしている。
まるで、守田一郎という人物が実在して、恋文の技術の内容は全て本当に守田一郎という男から送られてきた手紙のように感じられるのだ。
モリタ、守田一郎か。
今年頭に知り合ったツレだよ。
能登半島でクラゲの研究してる変なやつでさーと、こんな具合に人に紹介出来るぐらい、守田一郎がとてもリアルに思える。
作中では大まかに春から夏、夏から秋の終わりという二つの区切りが設けられ、それぞれの季節の同じ時期に守田一郎が別々の人物へ異なる内容の手紙を送りつけている。
そこで、ある人物と別の人物への手紙は異なる内容だが、一部重複している箇所があり、その断片的な情報を繋ぎ合わせると、手紙を書いた当時の守田一郎が何をし何を考えていたのかありありと思い浮かべることが出来る。
一人称という限られた視唐ゥら語られる内容、それも単なる小説ではなく手紙という体裁から、文章に修辞というものがないいやあるんだけど、事物に費やされる説明がないため非常にシンプルだ。
そこから汲み取れる情報は必要最低限まで削ぎ落とされていると言ってもいい。
読み手は、その最低限の情報を自分に理解可能なものに置き換え、彼が何を言わんとしているのかを想像する。
すると、そうやってその想像可能になった手紙の中の世界は突飛な空想ではなく現実に即している自分の経験を反映して再現したものであるため、とてつもなく現実感に溢れている。
守田一郎がリアルに感じられるのはそのためだろうと思う。
そしてもう一つ、恋文の技術において優れている唐ェある。
それは異常なまでの再読性の高さである。
この小説には、何度も何度も読み返してしまう仕掛けが施されている。
読み終わってから読み直すというレベルではなく、読みながら読み返してしまうのだ。
繰り返しになるが、恋文の技術は春から夏、夏から秋の終わりという二つの区切りの中で多数の相手に対して送られる書簡集である。
もう少し詳しく説明すると、春から夏の時系列順にある人物に送られた書簡が連続した後、一端章を区切ってまた別の人物に対して時間を巻き戻して春から夏へとまた時系列順に書簡が送られる。
ここが仕掛けの妙だ。
人物Aに対して春から夏に送られた手紙を読むことで、読者は守田一郎のワンシーズンを追体験する。
少なくともその時期の守田一郎と人物Aの断片的な情報を得ることになるLOVERS 出会い系。
そこへ時間を巻き戻して人物Bの書簡に入ると、春から夏にかけての守田一郎の別の側面がまたしても断片として語られる時には人物Aのことも。
出来事としては守田一郎は同じことを言っているはずなのに、そこでは守田一郎の別の顔が浮かび上がってくるのである。
誰々に宛てた何月何日の手紙、おや、この内容は確か以前にも少し出てきたぞ、どんなんだったかと、思わずページを戻して、章を遡って確認してしまう。
それと同時に、この法則性に則れば次の章の同じ時期に守田一郎はまた別の側面を滑ヤ見せるはずと先へ先へと読み進める原動力にもなっている。
大変な中毒性である。
基本的にエンターテイメントというものは使い捨て、一回見たら後はポイと投げ捨てられるのが大半だと思っている。
特に最近の漫画ラベはその傾向が強く、読み終わった直後なのに詳細を思い出せないなんてのはざらだ俺の記憶力のせいか。
ただ、俺は別にそれでいいと思ってる。
たまに本の表紙を見て、よく思い出せないけど確か面白かったな、という感情が湧いてくればそれでいいと。
ところがどっこい、恋文の技術は読後どころか読んでる最中から読み返したくなるのだから化け物だ。
これは凄い。
守田一郎の手紙は時期によって口語になったりかと思えば漢文書き下し調になったりと、飽きさせないと同時に彼の心理状態を窺い知れる。
果ては語り聞かせるようなひらがな文が出てくるに至って、アルジャーンに花束をを彷彿とさせた。
森見の野郎なかなか小器用じゃねえか素行の悪い不良がいいことすると評価が上がる類型。
ちなみに心の底から褒めてる。
大塚英志が著したキャラクター小説の作り方内で、手紙魔まみ、夏の引越しウサギ連れという短歌を紹介するくだりがある。
キャラクター小説の作り方はいわゆる小説執筆指南書というか、まあ違うんだけどそれに近いような内容の本で、主にライトベルを書こうという人向けのものなのだが、それでどうして短歌の話が出てくるかというと、手紙魔まみに掲載されている短歌は全て著者の穂村弘という人が書いたのではなく、まみという少女の手になるものとされているからである。
短歌は普通、自分が心に思ったことを自分の言葉で表現する媒体である。
ところが手紙魔まみはまみという穂村弘による架空のキャラクターが詠んだ短歌集だ。
自分が詠むのではなく、まみというキャラクターを通して詩を詠んでいる。
大塚英志はライトベルキャラクター小説としているが、つまりキャラクター小説とはそういうものだというのだ。
作者の架空の経験あるいは妄想を、作者の視唐ナ描く代わりにキャラクターの視唐ナ描くこと。
それは限りなく自然主義文学の私小説作者の目で見聞きしたことをありのままに描く小説群に近しく、文学界から一段も二段も低く見られいているライトベルキャラクター小説は実は自然主義文学に回帰しているのだと云々。
そんなことはどうでもいいんだけども。
手紙魔まみの短歌は、一日に何通も手紙という形で穂村弘に届けられたものである。
ということになっている。
手紙魔まみと偶然手紙という一致があるが恋文の技術も、森見登美彦が守田一郎の目を通した書簡であるちなみにこれも偶然の一致だが、恋文の技術内で守田一郎は森見登美彦に手紙を送っている。
何が言いたいかというと、恋文の技術もまた、大塚英志言うところのキャラクター小説なのである。
最終的にそれかよ。
だからなんのって、まあ、ここまで長々書いてきたけれども、そんなに気負わず読めばいいってこと。
恋文の技術は単なる書簡集ではなく、最後まで読んだ時の小気味の良さもまた素晴らしい。
ちゃんと伏線が張られていて、途中でおかしいなと思うかも知れないが、なるほどと膝を打って快哉を上げてしまうくらい心地良い出来映えである。
などとここまで持ち上げれば、どんな御仁も気になって立ち読みぐらいはするんじゃないかしら。
少なくとも何かの用事で書店に立ち寄ったら、棚で森見登美彦の列ぐらいは探すろう。
その折には是非恋文の技術を。
面白いから。
保証しますとも。
匆々頓首愛されざる横関聡愛すべき人々へ追伸文も技もあやって読めるよね。
てへ。
みたいな。
