(イタリアの旅、その8)

 

〈ドゥーモ(大聖堂)へ向かって〉 

 時間は午後2時を過ぎていたが、つぎに向かったのはドゥオーモ(大聖堂)である。正式にはサンタマリア・デル・フィオーレ教会(花の聖母教会)といい、サンジョバンニ洗礼堂とジョットの塔が隣り合って存在している。

 まずピティ宮殿から、通りをヴェッキオ橋に戻った。あまりに暑く、のどが渇いてヴェッキオ橋にあった水道に駆け寄り、ペットボトルに水を汲んで飲んだ。同じ思いの多くの人が群がっていた。

 ヴェッキオ橋を越え、再びシニョーリ広場に戻って来た。ここではランツィのロッジアの彫刻群を注意深く見るべきだったが、それよりも若い娘さんの方に目が行ってしまった。ちょうど前から4人連れの手足の長い、今風の、地元の娘さんたちが横一列になって闊歩してきたのである。そのぴちぴちとした姿に、撮影していたカメラも自然とその女性たちを追ってしまっていた。気付かれなかったからよかったものの、中年男のスケベ心が顔に滲み出ていただろうと思う。ボッティチェリやダビンチのモデルも、現代ならばこのようなイタリア女性かと思い、またボッティチェリたちも同じ思いではなかったか、などと下種な想いを抱いてしまった。

(ドゥーモ(大聖堂))

 シニョーリ広場を過ぎ、ドゥオーモの近くまでやって来た。ドゥオーモには、サンジョバンニ洗礼堂に面するハザード側ではなく、高いドームのクーポラ側から廻って行った。

 クーポラを見ながらドゥオーモを脇から進むと、正面にジョットの塔が見えた。

 ジョットの塔の先を回り込むとそこはドゥオーモの正面のハザードだった。対面にはサンジョバンニ礼拝堂があり、金色に輝く「天国の門」の前で多くの観光客がカメラを構えていた。

(ドゥオーモ(大聖堂)のファザードの前で)

 

 ドゥオーモは、フィレンツェの羊毛商人(毛織物業者)のギルド(組合)が中心となって、13世紀末から、それまでの古い大聖堂の跡に計画・建設されたものだという。フィレンツェは当時羊毛業(毛織物業)と金融業で台頭し、ヨーロッパの主要都市となっていたが、それがこのドゥオーモ建設の背景にあった。しかしそれが本格化するのは14世紀半ばからであり、とくにクーポラの部分の建設が難航していたが、建築家ブルネレスキが二重殻構造の計画を導入し、ドゥオーモ全体は1436年に完成した。メディチ家が権力を握る前の段階である。ドゥオーモはヨーロッパの大聖堂の中では3番目の規模を有しており、都市フィレンツェの共和国国家(コムーネ)としての経済的発展が背景にあった。様式では長い建設期間を経ているためゴシック様式とルネサンス様式が混じり合っているという。

 

 まあ、それにしてもすごい建造物を当時の人は作ったものだ、という感慨を改めて深くした。日本ならば鎌倉時代から室町時代の建造物だが、日本には金閣寺・銀閣寺があったにしてもここまでの壮大なものはない。石の文化が歴史的遺産を残したという側面はあったとしても、ヨーロッパの一共和国国家(コムーネ)に過ぎないフィレンツェがこれほどの建造物を造るとは。やはり、国際的産業の毛織物業を基幹とする手工業・商業の発展度合いが、島国日本などとは格段に違うのだろうという思いを深くした。

 

(アカデミア美術館へ)

 ドゥーモ内部の見学はアカデミア美術館を見てからと考え、先にドゥオーモの左側の通りからアカデミア美術館方面へ向かった。

 

 その途中に見たのはアコーディオンを弾いてる貧しい身なりの男だった(下左)。また少し離れた別の場所には座り込んでいる老夫婦の「物乞い」がいた。

 フィレンツェには大道芸人や路上にチョークアートをする絵描きが居て日銭を稼いでいたが、ヨーロッパの都市ではそれは比較的見かけ、数日前のヴェローナでも見かけていた。しかしアコーディオンの男は明らかに近くの老夫婦同様、「物乞い」であった。昔行ったインドでは芸を見せる物乞いも含め至る所にこのような人々がいたが、日本ではホームレスはいても、職業としての「物乞い」は現在は見かけない。現代都市フィレンツェにも、大道芸人とは性格を異にする「影の部分」が存在することを垣間見た思いだった。

 

(アカデミア美術館)

 10分もせずにアカデミア美術館の前に到着した。下の写真のように入り口前には多くの来館者が列を作っていた。

 アカデミア美術館の見どころは何と言ってもミケランジェロの「ダビデ像」である。ルネサンスが古代ギリシア・ローマ美術の「復興」であることはその名が示す通りであるが、後にアテネの考古学博物館を訪れて古代ギリシア彫刻のゼウス像(ポセイドン像とも)を見たとき(上左写真)、このダビデ像へ想いが及び、ミケランジェロの創作と言ってもギリシア彫刻の単なる模倣ではないかと思わせるほど、そのゼウス像の写実性の高さに感嘆したことがあった(ブログ「ギリシアの旅、その6」)

 

 ただ驚くのはミケランジェロの創作数である。ここにはミケランジェロの未完製作が4体ほど展示されている。沢木耕太郎は『深夜特急』の中でそれを取り上げ、芸術家における「創作」行為の本質を推測しているが、私は未完成数から想像できるその創作数を思わざるを得なかった。失敗作がこれほどあるということは、絵画作品・建築も含めてみれば、ミケランジェロの取り組んだ作品の数は如何ばかりあったのか、ということである。89歳まで生き、また工房での多くの弟子を抱えた仕事であったとはいえ、彫刻家・画家・建築家として取り組んだ仕事の膨大さは並みの芸術家の比ではないのは明白である。作品内容よりもその量こそがミケランジェロの「天才」の所以ではないか、失敗においても然りと思ったのである。

 

 つぎに、来た通りを戻り、今度はドゥオーモの中に入ってみた。よく言われるように、外側の豪壮な印象に比べて内部は簡素であった。クーポラの天井ドームの「最後の審判」の壁画が見どころであるが、高い所は苦手なので高さ116mもあるクーポラの展望台まで上るのは止めにした。

 もう4時過ぎの夕食を摂ってもいい時間になっていたので、ガイドブックで近くのイタリア料理の店を見てみると「ガスト・レオ」という店が載っており、そこに行くことにした。

 

 ドゥーモの一本北側の通りのコルソ通りを東へ歩いて行くと、途中にお土産にちょうどいい絵を売っていた店があったので、立ち寄り、ドゥオーモのクーポラが描かれている額入りの小さな石細工の絵を買い求めた。

 さらに進んでいくと、南に向かってストゥーディオ通りという路地がドゥーモの方に延びており、覗くと薄暗がりの中、中世を思わせる石畳の雰囲気のある路地であった。思わずカメラを向けたが、そこからはクーポラの頭が見え、どんな名所を見るよりもフィレンツェの雰囲気を感じさせるものであった。中世の子供が飛び出して来そうなそのときの印象は今でも記憶に残っている。下の右2枚の写真がそれである。

 

(買い求めた絵)

 これは自分のためのお土産である。家の壁に飾ってあるが、今でもこれを見るとフィレンツェの街歩きを思い出す。

 

(夕食を摂ったガスト・レオ)

 イタリア料理の店であり、パスタと生ハム・ワインと言う定番の料理を注文した。日本人の料理人がいて給仕もしてくれた。イタリア料理の修行をしているとのことだった。

 ヒズメの音がするので窓から外を見ると、表の通りを観光用の馬車がゆっくりと通り過ぎて行った。

 5時前には夕食を終え、もう街歩きはこれで終了と、ホテルまでの市バスの出るサンタマリア・ノヴェッラ駅のバスターミナルまで歩いて行くことにした。

 途中にあったメディチ家の礼拝堂のあるサンロレンツィオ教会にも立ち寄ったが、名所めぐりももう飽和状態となって、カメラを回す気力も無くなっていた。下の写真はネットから取ってきたものである。

(駅のバスターミナルから市バスに乗って)

 教えてもらっていたバスは何なく分かり、乗車することが出来た。フィレンツェの市バスは緑色を基調としている。

 バス乗車という、こういう日常風景が何よりも印象深いので、途中で車内を撮影していたら、気付いた黒服の女性が手を振ってくれた。ごくありふれた光景であるが、異国からの旅人にとっては何よりも嬉しく、旅の思い出になる。どの名所旧跡よりも印象深いものである。

 市バスは40分ほどして7時過ぎにはホテル前の停留所に到着した。1日でフィレンツェの主だった観光場所を回ってしまった。ツアーよりもはるかに面白い一日であった。こういう旅が一番好ましい。

 

(続く)