昔の懐かしい写真と、後になって同じ場所、それも同じ人と撮った新たな写真は、並べてみると、それぞれの人生の出発点と来し方を思い起こさせて不思議な感慨になる。ネットなどを見ているとそういう写真に出会う。
(ネット写真から)
過日、私は双子の兄を誘い、神奈川県の山北町を訪れて、同じような写真を撮った(下の玄関先の写真)。山北町は私たちの母方の祖母・春江の生地であり、60年ぶり、正確には58年ぶりの訪問であった。
(山北町の位置)
今回訪ねてみようと思ったのは、昨年のお盆に、すでに20年前に亡くなった母・陽子の句集を読み直していて、この山北町のことを詠んだ句※があり、基にした昭和初期の祖父・兼松の句※も思い出されて懐かしくなったことにあった(ブログ「母の俳句ー心を表現することー」)。
※「蜜柑山 背負(しょ)ひて下り来る 男かな」(祖父兼松)
※「蜜柑山 背負ふ里にも 夕あかり」(母陽子)
(山北町の蜜柑畑。「山北みかん」として知られている。ネット写真)
山北町は山間の町であるが、温暖で、明治時代に蜜柑栽培が始まり、それは大正時代にはカナダまで輸出されるほどであった(山北町史)。昭和の初めに祖父が祖母の実家を訪れて上のような句を詠んだのは、そのような蜜柑栽培の盛んな時代であった。
私が最初に山北町を訪れたのは、昭和43年の中学2年生になる春であった。祖母の妹になる大叔母夫婦が、法事で私の母の実家(茨城県日立市)を訪れた帰りに、「一緒にいらっしゃいよ」と私たち兄弟を山北町まで誘ってくれたのである。
(大叔母と下の娘さん、兄(中央)私(右)、玄関前で)
(58年ぶりに同じ玄関先で、兄(左)、私(右))
大叔母は同じ町に嫁いでおり、大叔父は高校の国語の先生(教頭先生?)をしておられた。二晩ほど泊めて頂いたが、その時にはちょうど大学紛争のピークであった全共闘による東大安田講堂の占拠がテレビに映し出されていた。家には娘さんお二人がいらっしゃって、大学に合格したばかりの上の娘さんには箱根の強羅のスケート場まで連れて行ってもらって遊んだ記憶がある。思春期に入ったばかりで、大叔父がテレビの紛争の様を批判していたことと相俟って、歳の近いそのお二人と過ごした時間のことは今でも鮮明に憶えている。
(明治時代の山北駅前、山北町史より)
山北町は祖母の思い出に繋がっている。
明治時代の末期に山北町に生まれた私の祖母は、江戸時代以来のこの地の名主・湯山家の子孫であったが、生まれたころの家は、東海道本線の要地として賑わっていた山北駅の傍で旅館業を営んでいた。祖母は大正時代の後半に小田原の女学校を卒業し、その後、山北を離れ東京(?)で電話交換手をしていた(国鉄に勤めていたとも私は聞いていたが)。ちょうど大正デモクラシーの時期で、女性の社会進出が始まり、電話交換手は教師・看護師などと同じように女性が選択する花形職業の一つであった。
その後昭和の初めに、茨城県日立から東京の大学を出て日通に勤めていた私の祖父(兼松)を紹介され、神奈川県の川崎(尻手)で結婚生活を始めた。これもこの時期から広く見られ始めた都会の「サラリーマン」家庭の「専業主婦」であったようで、やはり時代の流れの中にあった。昭和5年には最初の子供の、私たちの母・陽子が生まれた。
(川崎の家の前で。中央に立っているのが母陽子、その後ろ右が祖父兼松、その後ろ左(隠れているが)が祖母春江、前列右端が山北町の大叔父。後列左端が同大叔母。昭和15年頃)
(母陽子と弟たち、昭和10年頃)
ただ祖父は「女性も自活できる仕事を」と考えていたようで、祖母は品川にあった産婆さんの養成学校(昭和医学専門学校附属産婆看護婦講習所)に通って、その資格を得ていた。これは同時期に起こった昭和恐慌の影響があったのかもしれない。
太平洋戦争末期の昭和20年、前年末から空襲が始まったため、祖母と娘の私たちの母、その弟二人は、祖父の実家である日立市に縁故疎開した。戦争が無ければ、祖母や母は茨城とは縁はなかったと思うが、それは困難な時代がもたらした思わざる人生の曲がり角であった。
終戦後まもなく東京に残っていた祖父は日立に戻ってきたが、すぐに病を得て亡くなり、祖母一家は生活の糧と帰る場所を失って、そのまま日立に居着くことになった。働き手を失った戦後の生活は苦しく、母は通っていた女学校を辞め、親戚の世話で日立市の市役所に勤め、そこで同僚であった私の父と知り合って結婚した(ブログ「運のよいこと、父のこと」、同「心を整理すること、母のこと」)。
祖母もやはり親戚の世話で近くの小学校の給食調理員の仕事を得て、何とか生活を成り立たせていった。後には管理栄養士の資格も得て指導する立場にもなっていったが、すでに若い時分(結婚前後ヵ)に華道教授の免許も得ており、後にはそれでいくばくかの収入も得ていた。時代は東京オリンピック(昭和39年)など日本が高度経済成長を迎えたころになっていた。
(祖母春江(左)と母陽子と私たち兄弟、昭和33年ごろ)
大叔母夫婦が昭和43年の春に日立の私の母の実家を訪れたのは、戦後20年が過ぎ、それはちょうど祖父・兼松の23回忌であったと思う。そのころは祖母は私たち孫にも恵まれ、寡婦としての戦後の苦しい時期も乗り越えて、安定した生活になっていた。
(1月中旬の山北訪問の折り、東名の松田インターチェンジ近くから見えた富士)
(御殿場線、山北駅。ネット写真)
(山北駅前、ネット写真。山北町は昭和9年に丹那トンネルが出来るまでは東海道本線が通り、山越えのための補助機関車を連結する操車場(扇形機関倉庫)があって、貨客や鉄道関係者(650人)で賑わいを見せていた。駅前の通りは昭和銀座と呼ばれ、多くの商店や、割烹、旅館、演芸場、呉服店、馬力屋、薬屋、医院などが軒を並べ繁華な町であった(山北町史)。今でも当時の古い建物(右昭和7年、左同13年)が残っている。この様な時代と環境の中で祖母は娘時代を過ごした。上の写真では背後に山北みかんの蜜柑山が少し見える)

(山北駅に設置された「扇形機関庫」(「歴史・文化から学ぶ わたしたちの山北」))
(現在の山北町の通り、ネット写真)
(祖母の祖先の湯山家の墓への案内標示)
(湯山家の墓所の説明版。祖母の先祖の名主・湯山弥五右衛門は、江戸時代中期の元禄地震や宝永大噴火による用水路破壊と洪水で荒廃した村を復興した治水家として知られ(山北町史)、同じく治水・利水に尽くした子孫と共にその墓所には説明板が建っている)
(湯山家の墓所)
(東名高速の直下、皆瀬川脇にある川入堰記念碑。湯山弥五右衛門父子の用水路開削を顕彰した碑(元文2(1737)湯山三太夫等創建)。右はそれを眺める兄)
祖母春江は今から45年ほど前に78歳で亡くなった。私たちが就職して間もなく結婚するという時期であった。母陽子はそれから25年ほどして亡くなった。いずれも時代に色濃く彩られた人生だった。
この間、私たち兄弟はそれぞれに人生を歩んだが、お互いに、祖母の思い出とともにこの山北町のことが自らのルーツの一つとして長く心に留まって来た。今齢70を過ぎて人生を振り返る年齢となり、中学生のときに大叔母夫婦に誘われて訪ねたことが思い返され、このように兄を誘って訪れたのである。
すでに娘さんたちも他所に嫁がれ、今はだれも住んでいない家の門前に立ち、昔の写真を思い出して、二人して同じ場所に立って写真を撮ってみた。今2枚の写真を見比べてみて、ご当家にお世話になった思い出と、祖母の人生、そして訪問から60年もの時間の経過したことに、ただただ感慨無量の思いとなっている。
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