(古河公方と川の民、その5)

 

 戦国時代の古河公方に関わって、前々回まで、古河悪戸(茨城県古河市)の対岸となる下宮(栃木県藤岡町)の渡し守の茂呂氏について見てきた。茂呂氏は渡良瀬川を挟む下宮・悪戸間で、通行する船舶から通行税を徴収する関所役人であり、社会的には川を生活の場とする「川の民」の頭目ではないかと紹介してきた。

 

(地図1、北関東3国の境界と河川、下宮・古河の位置)

 

(地図2、小田原北条氏の支配領域の拡大、紫点線が3代北条氏康ごろの支配領域)

 

 下宮の地は、下野・上野・武蔵三国の境界に位置し、渡良瀬川と思川、利根川の一派谷田川(合の川)が合流する川又の地点であった。河川交通を利用して人やモノが行き交う場合、三国からの物流を一点で扼すことのできる交通上の要地である(地図1)。戦国時代の前・中盤、古河公方が小山氏など北関東の豪族層をバックにして南・西関東の関東管領上杉氏や小田原北条氏に対抗できたのも、また後半の公方義氏時代、北条氏の庇護下に入って北関東勢に対抗できたのも(地図2)、隣接する古河と共に経済的にこの地点を抑えていたことが背景の一つにあった。

 

 そういう場所であるので、古河公方内部では、この下宮の利権をめぐって、茂呂氏だけではなく、いくつかの交通に関与する氏族が史料に登場して来る。

 

 ブログ「その2」で見たように、天正13年(1585)に茂呂雅楽助に下宮の船津の屋敷が与えられるまでは、そこを管理していたのは「兵庫」なる人物であった(茂呂家文書、Ⅳ号)。

(地図3、利根川に面する赤岩と古河の位置)

(地図4、赤岩の渡と舞木の位置関係)

(現在の赤岩の渡、今でも渡船が交通の便になっている)

 

 では「兵庫」とは誰であろうか。

 最も考えられる人物は、最後の公方義氏の側近で、上野邑楽郡舞木(群馬県千代田町)が本拠と考えられる「兵庫大夫」舞木景隆(藤原景隆・定綱)である。

 舞木氏は秀郷流佐貫氏の系統の武士で、結城合戦(1440)のときにすでに公方方として見える。この時期には景隆(定綱)は公方と公方祈願寺の下野足利鑁阿寺の間の取次役をやっており(鑁阿寺文書)、公方政所の職員の一人と見られる(稲垣泰彦「古河公方と下野」)。鑁阿寺文書に見えるのは天正13年(1585)より30年ほど前の天文末年から永禄3年ごろ(1553~60)であるが、仮名「孫太郎」から官途「兵庫大夫」に変わるのが弘治元年(1555)なので、その後も長く存命し、引き続き「兵庫大夫」を名乗っていた可能性は高い。景隆は鑁阿寺に送った書状の中で「舟出」とか「船頭万蔵知人」であるとか、舟運との関りを述べているが(天文23年舞木景隆書状『鑁阿寺文書』)、舞木の地は利根川に面し、永禄10年(1567)に北条氏政が、関東に進軍して来た上杉謙信と戦うべく舟橋を架けた赤岩という渡船場に隣接している(上杉輝虎書状写『歴代古案』地図3、4)。舞木氏は、元来が河川交通や渡船業に長じた氏族かと見られ、上の舟運に関わる言辞もそれ故であろう。これら茂呂氏との共通性から「兵庫」は舞木景隆にほぼ比定できる※。

 

 ※のちの天正年間に、同じく義氏と鑁阿寺との取次役を担った公方側近の小池晴実

  は、公方重臣の簗田氏庶子領・水海出身で、広域流通に関わる流通商人であった 

  (拙稿「戦国期簗田氏城下水海の歴史的位置」)。この共通性からも舞木氏の性格は

  上のように考えられる。

 

 さらにそれ以前には公方重臣の一人、古河に近い栗橋の野田氏の家人として見える石塚氏も下宮に関わっていた。

(向古河側から古河を眺める。手前が向古河。古河城は新三国橋が渡良瀬川を越えた河川敷一帯にあった)

 野田氏は、以前から公方領国の中で広く「御料所」(公方の領地)を預けられていたが、その内に「向五郷」という場所があった(野田千弘氏所蔵文書)。ここは渡良瀬川を挟んだ古河の向かい5つの郷(村)のことで、その中には下宮郷や向古河村も含まれていた(地図5)

 天文8年(1539)、古河公方を勢力下に置こうとした小田原の北条氏綱は、妹を公方晴氏に嫁がせ、跡を継いだ氏康は、生まれた子の義氏の外戚として実権を握ろうとしていた(地図2)。このころ野田氏は北条氏側に就いていたため、晴氏によって一時所領を失ったが、天文事件という晴氏・藤氏(本来の嫡子)父子の北条氏への反乱事件に功があったため、天文23年(1554)に「向五郷」を含め39箇所の旧領が義氏によって返還された。

 

(地図5、野田氏家人石塚氏の知行地)

 

 これらの経緯の中で、野田氏家人の石塚氏の下宮への関りが見えるのである。それは天正18年(1590)に書かれた石塚照吉由緒書の中に出て来る(小山市立博物館所蔵石塚文書)。

 抜粋すれば、つぎのような部分である。

 

  一、(前略(天文事件の経緯が述べられる))亡祖民部少輔、①(野田)弘朝為家

   条、小田原(北条氏)へ使者被進候、②其節向古河村・下宮ノ郷被下候、翌

   月古河様(義氏)御本意ニ付テ、則入部仕候

    (中略)

  一、古河様(晴氏)、③(北条)氏康御妹御輿入候、付テ如此候

  御判之書立

  一、晴氏様ヨリ ④対馬守御判一ツ(後略)

  一、藤氏様ヨリ ⑤民部少輔依テ由ィ官如此候、

  一、北条ノ氏康 ⑥向古河村

          ⑦下宮ノ郷

  一、野田殿ヨリ ⑧大和(大輪)ノ郷

          ⑨大野ノ代官

  一、野田殿ヨリ ⑩あつと(悪戸)

          舟塚之田

          ⑪下宮ノ舟津

  一、⑫栗橋城廻ニテ 永楽五拾貫文、手作分也、

    (中略)

  一、小山殿ヨリ   民部少同人

          ⑬縫殿助

    (中略)

   天正十八年九月九日 石塚下総守照吉書@


 この由緒書きでは、天文事件で返還された野田氏所領のうち、「向五郷」に入る向古河村と下宮郷は家人の石塚氏に下され、翌月には石塚氏はその地に入った(①)と見える。さらにその権利文書(御判)も北条氏康から与えられたと記す(⑥⑦)。さらに注目されるのは、主人の野田氏より「あつと」(悪戸の誤り)(⑩)と「下宮ノ舟津」(⑪)が与えられていることである。天文23年(1554)の天文事件を契機に、石塚氏は下宮郷と向古河村を獲得した上、さらに下宮の舟津と古河悪戸も掌中に収めたのである。これは、後に茂呂氏が持つことになる下宮での船役徴収権をこのとき手に入れたということである。

 

 これらから、下宮の船役徴収権は、石塚氏(天文23年~)→舞木氏(~天正13年)→茂呂氏(天正13~)と移り変わっていったことが分かる。そのうち舞木氏と茂呂氏は川や渡し場と深く関わる存在であった。石塚氏にもそのような水との関係を想像するころが可能である。

 またそこには、ブログ「その2」の茂呂家文書のⅣ号でも見たように、北条氏側と伝統的な古河公方権力との対立も見て取れる。石塚氏と茂呂氏はともに北条氏勢力と強く結びついた存在であり、舞木氏は伝統的な足利家奉行人と結び付いた存在であった。

 このように、相異なる政治勢力を背景に下宮関係者が移り変わるのは、古河公方の領国経営にとってそれほど経済的に重要な場所であったことを意味している。また一方でそれは、当地方ではこれら流通・交通に関する氏族が数多く簇生・活動し、公方経済の基盤を形成していたことを推測させる。さらに、茂呂氏が「侘事(わびごと)言上」(積極的要求。茂呂家文書、Ⅳ号)したのは、彼らによる「富」をめくる競合がそこにあったこと示している。

(永禄11年(1568)野田氏に替わり栗橋城に入った北条氏照によって改修された栗橋城想定図。この周辺に石塚氏の手作り地があった。ネット図)

(栗橋城跡、手前は権現堂川、ネット写真)

 

 さらにここで注目されるのは、船役徴収者に止まらない石塚氏の性格である。

 

 石塚氏は、所領として主家野田氏の居城のある栗橋城周辺(地図5)に五十貫文の手作地を持っていたほか(⑫)、野田氏から「大和(大輪)郷」も与えられ(⑧)、さらに「大野ノ代官」にも任じられている(⑨)

 大輪郷(埼玉県久喜市)は、前に見た向古河の商職人渡辺氏が関所「改」役人と推測される利根川支流島川の港津・八甫のあった場所である(地図5)。また大野(古河市下大野)は古河の特権商人福田氏がやはり野田氏に代官職を求めた小堤郷(古河市小堤、福田家文書)と隣り合う場所で、鎌倉街道中道の支道が通っていた(地図5)。ともに水路・陸路の要地で、交通や物流と深い関わりを有する場である。商人福田氏は小堤郷の代官として年貢米収納を請け負い、換金等でその差額を自らの収益とするととも、関所料など陸路からの交通権益を得ていたものであろう(小堤と大野の境には「関戸」なる地名が存在する)。そういう場所に石塚氏は所領や代官職を持っていたのである。先に見たように、これは、石塚氏の本質が、単なる武士ではなく商人や交通業者的存在であったことを暗示している。

(小田原北条氏3代目の北条氏康と小田原城)

 加えて注目すべきはである。

 ①は、天文事件の時(1554)、石塚氏が主家野田氏の意向で北条氏の居城小田原まで使者として赴いたと記し、は、遡って天文9年(1540)、北条氏綱の妹が小田原から古河公方晴氏まで輿入れするときに「付」添っていたと記す。は交通・物流に関わると推測した石塚氏の性格から想定すれば、「輿入れ」(結婚)に伴う婚姻道具など諸物資の輸送を担った可能性が考えられ、についても「使者」となったのは交通業者としての側面が反映しているのではないか、と考えられる。どちらも野田氏と小田原北条氏との深い関係を前提としつつ、ここでも交通・物流に関わる石塚氏の性格を垣間見させるものである。

 

 またさらに交通・物流業者としての性格を反映していると思われるのは、その官途・受領名や名乗りの在り方である。

 石塚氏の祖は官途「民部少輔」を得ていたが、民部少輔は最初、下野の豪族小山氏から「縫殿助」を与えられ(⑬)、ついで野田氏から「民部少輔」、さらに晴氏から「対馬守」(④)を得、その子は藤氏から「民部少輔」を与えられたと記している(⑤)。上の史料では省略したが、石塚氏はその後の代に下野皆川城主の皆川氏から「弥右衛門」や「下総守」も与えられている。また由緒書きの作成者「照吉」の「照」は当時栗橋城主となった北条氏照、あるいは後に仕える皆川広照からの一字拝領と思われる。

 石塚氏は、栗橋野田氏に仕える前は下野小山氏に仕え、野田氏に仕えている時は公方家から新たな官途を貰い、野田氏が永禄11年(1568)栗橋を離れて古河に移ったのちには栗橋に入った北条氏照、さらに下野の皆川氏の配下に入ったのである。

 

 このように仕官先を変えたり、他氏から官途を与えられたりしているのは、当時の有力商人や物流業者にはよく見られ、周辺領主といくつもの主従関係を結び、広域の商業・流通での活動とその安全保障を得ようとした結果とも言われる(滝川恒昭「戦国期房総における流通商人の存在形態」など)。これも石塚氏の性格を示していようか。 

(陸上輸送業者の馬借、「石山寺縁起絵巻」)

 石塚家文書の中に、流入文書と見られる16世紀前半の小山政長宛て公足利高基書状がある。内容は政長から献上馬があったことに対する公方の返礼書状である。この文書は本来小山氏に伝わるべきものであるが、当時は、まま実務を担った家に伝わることもあった(前述の向古河の渡辺氏、小手指の渡辺氏など、佐藤博信『江戸湾をめぐる中世』)。石塚家に流入したのは小山氏の馬献上の実質を石塚氏(縫殿助)が担っていた故の可能性がある。そこから、石塚氏が小山氏に仕えた職務は小山氏の馬の飼育・管理に携わるものではなかったかとも推測される。

 

 中世京都の院や摂関家では厩舎人・厩寄人など厩舎職員を馬借などの陸上交通業者が担っていた事例が知られ(網野善彦「中世前期の馬借・車借」『立命館文学』521号)、また古河公方家でも厩舎人を商人小池氏一族が担っていた(拙稿「古河公方領国における流通」『中世東国の内海世界』)。これを敷衍すると、石塚氏は河川交通のみならず馬借の棟梁など陸上交通にも関与した存在という想定も可能となり、水陸にまたがる一大模輸送業者という実像も浮かび上がってくるのである。そう考えると、北条氏綱の妹の古河への入嫁で小田原から輿入れ荷物の輸送を担当したとの上の推測も妥当性を持ってくる。

 

 戦国時代の関東では、このような、表面上は武士として見えるが、実態は交通・流通業を基本として商業その他を担う存在は数多く確認できる(滝川同上、佐藤同上)。それは滝川恒昭氏によって「流通商人」と研究用語化されているものであるが(滝川同上)、公方周辺に限って言えば、公方に仕えた古河の特権商人の福田氏(佐藤博信「福田家文書の検討」『古河公方足利氏の研究』)、関宿の領主簗田氏・北条氏に仕えた同じく特権商人の会田氏(滝川同上)、公方義氏権力の中枢にいた水海出身の流通業者の小池氏(拙稿同上)、後北条氏と結んだ小手指の流通商人渡辺氏、向古河の商職人渡辺氏(ともに佐藤同上著書)などの存在が今まで明らかにされてきていた。

 しかし史料を丹念に見ていくと、他に類似の存在も数多く認められるのである。茂呂氏もそうであるが、今回紹介した舞木氏や石塚氏もその範疇に入るものである。古河公方の周辺には相当数のこのような流通商人がおり、中には小池晴実のように義氏権力の中枢に入り交通・財務吏僚的役割を果たす者までいた(拙稿同上)。古河公方権力の性格は土地支配よりも流通支配に多く依存していたと言われてきたが(佐藤同上、市村高男「古河公方の権力基盤と領域支配」)、さらにその点を深める上でも、彼らの位置と役割は注目しなければならないのである。

(地図6、関東の2つの内海と二大河川水系。水の世界から見た場合、2つの内海世界と共に、そこに注ぐ二大河川水系、とくにその近接地点の古河地方(猿島郡)は重要であった。そこを掌握することが北関東の覇権にもつながることになった。古河公方の存在はこの点に裏打ちされたものであった)

 

 15世紀半ば、享徳の乱の勃発のともに鎌倉から公方足利成氏が古河へ移座し、ここに関東の戦国時代は始まった。古河は、その後130年余も「関東の都」として存続した。移座の理由は、今まで公方御料所の要地であったとか、小山氏など北関東の豪族層との政治的連携とか、当初の戦略的条件に左右されたとか、政治的・権力的視点、あるいは軍略的視点でしばしば説明されてきた。しかし見落としてならないことは、多くの流通商人を生んだ、北関東の経済の活性化とその結果としての社会的富の蓄積がそこにはあったことである。これは関東の二大河川水系の結節点として古河地域の持つ地政学的特性である(地図6拙稿「戦国期東国の首都性について」『北関東の戦国時代』)。福田氏・会田氏・小池氏などはいずれも当地に生まれ、二大河川水系を跨ぎ、さらに内海世界まで活動を展開した流通商人である。享徳の乱勃発と成氏移座の根底には、この地域性が生む社会的「富」をめぐっての抗争という側面があったとことを見落としてはならない。将門以来の伝統的な北関東の自立的側面である(拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』)。

 

 一般に中世後期は商工業が発達して庶民の経済力が高まった時代と言われるが、戦国時代、公方が新たな関東支配を行うためにはこの地の掌握が必要となっていたのであり、極論すれば彼らが公方を引き寄せたとも言えるのである。

 

 

※以上のうち、石塚氏については拙稿「戦国期栗橋城主野田氏の被官石塚氏について」(『茨城史林』31号)の一部を簡単にまとめたものである。

 

(続く)