一人暮らしになり、時々雨の音で目が覚める。

私が住む北海道は、ここ数年春先から、天候が

悪く、亡き母が残した小さな畑に植える野菜の

生育が悪い年が続いた。会社勤めの頃は、仕事の合間に、土作りから、種まき、水やりまでを行い、その収穫を楽しみにしていたが、なかなかその生育が悪いと、愕然としたものだ。自然 

相手のことは、本当に天候次第。人は勝手なもので、日照りがない時が続けば、雨が降って欲しいと望み、雨が多い日が続くと、天候が回復しないものかと思う。


しかし私はこの小さな畑を管理するようになってから、雨の恩恵を感じるようになった。太古

から、水の確保は大きな問題で、ヨーロッパにローマ時代に作られたと思われる水道橋が多いのは、まだまだ下水道が完備されていなかった時代に、雨水を貯めて、それを各家庭に運ぶために、いち早くその頃に作られたからであろう。おそらく多くの庶民は、わずかでも土地が

あれば、畑を作り、そこで野菜などを栽培して

食料を確保していたからである。それには、

水は欠かせない。井戸もあったらしいが、水が

少ない地域では、それを確保することは大変で、考古学の分野におけるローマ時代の研究では、家に雨土井を作り、雨水を家の地下に貯めていたことが、様々な発掘や調査で、判明しているし、大きな都市国家では、地下に貯水槽を

作って、水を確保していた。


今では言う水洗トイレも、その時代には設けられており、私が驚くのは測量技術が、今ほど

発達してはいなかったであろうそんな時代に、

広い土地に精密に石を積み上げて、屋敷が作られていたことだ。石は腐食しないから、土に

埋もれたそれらの遺跡が、数多く発見された。その技術力には驚嘆する。メジャーなどがない頃である。どうやって当時の人々は精巧に、石を積み上げたのか?例えばビラミットも、いかにして、あのような形に作り上げられたのかと考えれば、当時の人々の建築に対する知恵の

深さに感嘆するのである。そして何よりも

命を繋ぐために、雨を大いに利用していたことも、もしかしたら水道の開発にも繋がり、その

雨水を濾過する装置の開発を生んだかも知れないのだ。


こうして考えてみると、いかに雨が人間の暮らしには欠かせないものであるかが、わかる。

今でも行っているのかどうかは知らないが、

農村の中には、長い間日照りが続くと、雨ごいをする所もあったようだ。かつてのアフリカ

諸国が、食糧難に陥ったのは、雨が降らずに、

畑が渇き過ぎて、何も収穫出来ず、そのために

食糧危機が起きた故である。だから川などの

水に恵まれた地域では、早くから農業を始めて、食糧を生産していたのである。本当に、

雨は大事で、私の家には、先の畑の端に、昔の

灯油を入れるブラステックの缶やアルミ製の

古いたらいを置いて、それに雨水を貯め、畑に

撒いている。これだけでも、かなり水道代の

節約になる。こんな類いのことは、古代の

人々はすでに知っていて、だからこそその水の

確保のための設備が、完備されていたのだ。


何と言う賢さだろうか?よく先人の知恵と言うが、AIの発達は、人間から様々なものを奪いつつあり、子供の頃から、ゲームばかりしている

彼等の国語力は低下しているという。それは

デジタルの発達に伴い、何でも機械が代行する

時代になってから、知恵を養う機会が少ないかではなかろうか?だから余りにも便利になり

過ぎるのも、いかがなものかと思う。極論かもしれないが、何もなければ、そこから何かを

生み出すことでしか、暮らしは成り立たない。

だから昔の人々は、自給自足が当たりだったのかも知れず、専業農家は別として、趣味で畑を作って、野菜を栽培している者もいるが、

これほど何でも食料品が揃う店がなかった時代には、自らで畑で野菜を育てなければ、その日の食糧が確保出来なかったから、誰もが必然的に畑での作業に従事していたであろうし、そうでもしなければ、納税すら出来なかったのである。現に廃藩地権になり、江戸幕府がなくなるまでは、お金の変わりに、その生産されたお米の一部を、税として領主らに納めていたのだ。


よく大名の位を米高で表していたのは、その

ためであり、米は水田でなければ、育てられない。だから雨が降って、畑に水が供給されなければ、米さえ収穫出来なかったのてある。本当に自然は上手く出来ていると、思わずにはいられない。それに対して、私たちはどれほどこの自然の恵みに、感謝しているだろうか?ただ

畑があっても、適度な雨がなければ、作物は

成長しないのである。日本の米の自給率は、

政府のこれまでの農業政策の影響で、とても低く、米不足の際には、海外からそれを輸入して、供給された。もし何らかのアクシデントで、食料品の輸入が停止したならば、日本は

食糧危機に陥るのは、否めない。本当にこの

食糧の自給率の低下は、由々しき問題であり、

何度も開催されている地球温暖化の問題も、

人々の叡智を結集して、解決の方向に向かわなければ、地殻変動さえ、起こり得る。


私たちは食糧が日々与えられているのは、当たり前ではなく、自然がもたらした恩恵であることを、心から感謝する必要がある。それは、

自然と共に、時には悩み、時には作付けなどに

苦労している農家や天候などにより、漁獲量を左右されながらも、海に出て魚を取る漁師らの働きがあってのことで、彼等は自然に逆らわずに、むしろそれを利用して、自らの責務を果たしているからだ。幸いにも私は食の宝庫と言われている北海道に住み、その天然の食材に恵まれている環境にある。だからこそ尚その思いは、強くなるやも知れない。