高校に入るまで暮らしていた木造の長屋は、

日が当たらず、冬は雪が大量に積もるので、

昼間でも明かりをつけないと、暗くて過ごせ なかった。だから高校に入学した時の秋に、

町の高台に、親が建てた家に引っ越した時には

辺りには何もなくて、存分に日光が当たることか嬉しかったものだ。それに夜明けと黄昏時が 美しく、裏は農家だったので、常にその田園風景が見られた。


東北の農家の出身だった母が小さな畑を作り、様々な野菜の栽培をしていた。様々な野菜を 植えていて、仕事の合間にその手入れをしていたのだ。その方法すら教わらず、当時はそんな作業には全く興味がなかったので、それを知らず、母亡き後き家を継いで、私自身が全面的にそれを、行わなければならない状況になった瞬間に困惑したものだ。畑の手入れを始めてみると、いかに太陽の光が野菜が育つのに重要であるかがわかる。例えばトマトを栽培する時には、日照不足だと、光合成がなされずに、その実は赤く色づかない。ここ数年は作物が成長する時期に雨が多く、昨年は大好きなトマトの栽培に失敗した。


当たり前だが、適度な雨と日光がそれには大事である。また私が住む北海道は夏でも気温が急激に下がる日がある。そんな日に陽光が部屋を照らすだけでも、暖かくなり、心もほぐれてくる。いかに太陽の役割が大きいことか?

それが地球を照らす角度により、季節が変化し、例えば日本が夏なら、南半球の国々は冬であるように、季節が異なるようだ。


太陽という言葉で思い出すのは、アラン ドロンを世に知らしめた太陽がいっぱいという

フランス映画である。貧しい青年が、お金持ちの友人を殺害し、その人物に成りすまして、大金や彼の恋人までをも奪い取るというストーリーだった。夏の日差しが照りつける海。そこには船が浮かんでいる。その所有者はお金持ちの息子。その貧しくて、若き男性は、金持ちの息子に色々と指図され、罵倒される。ある暑い日にその船内で、ゲームをしていた時に、青年はその金持ちの息子を、ナイフで殺してしまう。その遺体をシートで包み、海に沈めるが、船のスクリューにそれが絡まっていたのを気づかずに、青年はパスポートを偽造し、殺害した金持ちの息子のサインを、何度も練習し、その人物に成りすまして、高いホテルなどに宿泊する。


いつもまばゆい陽光が、その青年と金持ちの

息子の恋人だった女性が乗っていた船に、

照りつける。だがその金持ちの息子の行方がわからないということで、警察の捜査が始まり、その青年が容疑者として、疑われた。確か

ラストシーンはある海辺で、ビーチでよく

使われる椅子に横たわっていた青年に、警察の手が延び、船のスクリューに絡まれたシートに包まれた殺害された金持ちの息子の遺体が、

現れるというものだった。犯人の逮捕を連想

させるようなルネ クレマンの演出は素晴らしく、そこで哀愁を帯びたテーマソングが、流れてくる。


映画こタイトルに使われた太陽という言葉は、単に船を照らす陽光だけではなく、何もなかった青年が、ほんの一瞬でも手にした財産や女性を象徴する意味合いになっているのではないかと、勝手に思っている、太陽は陰る時もあり、すべてを手にしたように思われても、人生における忍び寄る影は、避けられなかったのだろう。太陽が効果的に用いられた名作である。


私たち人間を始めとして、この地球に生きている動物は太陽の光があればこそ、その生を、

全う出来るとは言えまいか?私は今でも暗い部屋で暮らしていた幼い頃のトラウマ故に、夜寝る時にでも、部屋を真っ暗にはしたことがない。暗闇の恐怖を感じるためだ。そして太陽の光は多くのものを育て、慈しんでいるように感じ、それに感謝している。