すでに両親が天に召されてから、10年以上の 歳月が流れているが、私は実家を継いだので、

なかなか過去を克服出来ないでいる。

特に8月は母が亡くなった月であり、それが

きっかけで、夏が嫌いになった。肺がんの

ステージ4で、それが発見された時には、私が住む町から、汽車で1時間ほどにある町にある呼吸器と循環器の専門病院は、経営危機の状態にあり、医師の多くが辞めていた状態だったが、新患を受け付けないと言われていたものの、奇跡的に入院が認められ、抗がん剤治療により、母の腫瘍は小さくなったし、それから

数ヶ月後に脳に転移したけれど、その町にある他の総合病院の放射線科による放射線治療で、それも見えないほどに小さくなり、これで母も回復すると安堵したものの、微量でも、ガン細胞が残っていれば、それが何らかの理由で肥大化するらしい。結局母は再発して、地元以外の病院には行きたくないという彼女の希望で、やむなく地元の総合病院に入院したが、呼吸器の専門医がおらず、内科で多少その知識がある程度の医師が、主治医になったために、何ら治療らしきこともなされずに、そこに緊急搬送されてから、1ヶ月にも満たない頃に、彼女は息を引き取った。私は今でもこんな元々評判が悪く、呼吸器科のない病院よりも、一時的ではあっても、その容態が良くなった先の呼吸器の専門医が常勤している他の町の病院に、彼女を連れて行けば良かったと、今でも後悔している。そうすればいくら末期でも、違った対応がなされたのではないかと、思うのだ。


母が亡くなってから、私と家族との生活は激変した。若い頃からよく働いて、家計を助けていた母の死が、私たち家族にもたらした衝撃は、

とても大きく、特に母に全面的に依存していた

父はしばらく憔悴しきっていたものだ。

私が洗礼を受けて、クリスチャンになったことを告げた時には、劣化の如く非難していた宗教嫌いだった父が、母の死亡により、備えた仏壇の前で、毎日手を合わせて祈りつつ、亡き母に

語りかけていた。


彼女の死から2年ほどが過ぎた頃に、私は縁あって、ある町の合唱団に入った。その頃練習していたのは、何とモーツァルトの最後の作品で、彼の存命中には未完で終わり、その後に

その弟子により完成させたと伝えられている

レクイエムだった。レクイエムとは死者に、

対する哀悼の曲である。まさか母を失った私が

こんな曲を歌うようになろうとは、想像しては

いなかった。まして私はクリスチャンである。

レクイエムは形式が決まっているようで、それはキリスト教に基づき、作曲されていた。母の

死すら受け入れられなかった私には、その現実は辛いものがあった。何故その悲しみが癒えないのに、レクイエムを歌わねばならないのかと

何度も思ったが、逃げられなかった。

 

本格的なオーケストラのもとにクラシックを、

原曲で歌うことをコンセプトに結成された合唱団である。私は地元で2度ほど、オーケストラをバックにクラシックを歌った経験が、過去に

あって、合唱団に入るなら、クラシックを原語て歌える所にしたいという強い願望があり、

それがその合唱団により、叶えられたので、

もしレクイエムを歌いたくなければ、そこを

退団するしかないのだが、当時の私には、それは出来なかった。その曲の練習のために、汽車で50分ほどかけて、農業の盛んな町の駅のそばにあるホールに通う日々。5時間の練習が追われば、その会場の清掃をする必要があったが、

地元に戻る汽車の時間が迫っていたので、練習後はすぐに駅に向かうという慌ただしい日々でもあった。


こうしてある年の夏に、ハッカの町として知られていた町の市民会館で、その合唱団の定期演奏会が開催された。青森から、指揮者を招き、

プロのソリストも招聘しての演奏会であった。

初めてそれに望んだ時のことは、鮮明に覚えている。その頃勤務していた会社には、事前に、

有給願いを提出しておいた。確か演奏会は日曜日で、その前日がゲネプロだったから、私は

金曜日にそれが開催される市民会館がある町に

入った。ソリストも交えた最終リハーサルは

その翌日の朝から、食事休憩などを除いて、夜遅くまで行われた。翌日は午前中に最終チェックをして、午後からが本番だった。


何度か合唱でステージには立っていたが、初めての地元以外での演奏会である。本番が近づくにつれ、緊張が増していき、ステージに立った

時には、それが頂点に達していた。ただ幸いだったのは、楽譜を見ながら歌えたことである。

指揮者の中には、演奏曲目はすべて暗譜の場合もあったし、地元で初めてベートーベンの第9を、市民編成の合唱団の一員として、歌った時には、第一楽章から、ステージ上では立ち続けていたものだ。しかしモーツァルトのレクイエムの演奏時間は、1時間程度と短かったので、

その前にソリストによる小曲の歌唱があったが

彼等は一度の音合わせで、ぴったりとオーケストラなどと、音を合わせてしまうのだから、さすがはプロだと、驚いたものだ。こうして最初で最後のレクイエムの演奏は、会場内の多くの

拍手に包まれながら、無事に終了し、大きな感動を抱きつつ、心地良い疲れが残った。

今でもモーツァルトのレクイエムを聴く度に、

当時のあらゆる光景が、鮮明に脳裏に甦る。

この曲を歌い切ることが出来たなら、母の死も

乗り越えられるかもしれないと思っていたが、

それは未だに実現されてはいない。けれども

オーケストラで本格的なクラシックを歌いたいという願いは、こうした形で叶えられた。

それだけでも、幸いだと痛感している。機会が

あれば、再びクラシックを原語で歌いたいものである。