子供の人権という言葉が、使われ出したのが

いつからだったのかは知らない、少なくても

私が子供の頃は、人権なんかなかった。

父親が家では一番偉いと思われていた典型的な 昭和の家庭。どんなに女が家族のために、

働いても、その労は報われなかった。両親は

仕事で疲れると、必ずケンカになり、それが激しくなると、父が決まって母に暴力を奮っていた。何故女という理由だけで、こんな理不尽な扱いを受けなければならないのかと、怒りを感じた。結婚して、家族を作ることにより、もたらされた苦しみを、幼い頃からこんな酷い扱いを受けてきた母を見て育ったし、家でも経済力がない者が、どんなに人として、酷い扱いを受けるかを、痛感していたので、私は結婚などしないと誓った。だからどんな条件であっても、働いたが、低賃金の会社でおまけに非正規。そこでも差別された。


労働者にすら、人権はないと実感して、組合活動をしていた知人が、よく出入りしていたある

道議会議員の事務所を訪れたものだ。その人は

クリスチャンの家庭に生まれ育ったものの、

組合活動に熱心になった余りに、さほど教会には行ってなかったようだ。確か洗礼名は聖母マリアの父親の名前で、子供の時には、教会の

聖歌隊におけるボーイソプラノだったらしく、

歌は上手で、その頃私が働いていた会社の近くにあったカラオケがある喫茶店で、よくそのカラオケで歌ってたものだ。


その会社で体調を悪くした私は、何度かその人に、労働に関する問題を相談したものだが、

その時に在籍していた会社には、残念ながら、

組合はなく、しかも同族会社だったので、会社が何らかの不正や脱法行為をしていたところで、それを組合に訴えることが出来なかった。


とても悔しい思いも重ねたが、私が住んでいたのは田舎町なので、こんな未組織労働者が多く、生活のために、いかなる悪条件でも働かざるを得なかったのだ。組合の恩恵に預かれたのは、一部の公務員程度だったが、私が様々な官庁で、非正規としてそんな所で働いた実感は、人にもよるが、彼等は一様にエリート意識が高く、自らが選ばれた者であるという高慢さが

強かったことだ。公務員は本来その町の市民に 仕えるのが仕事。いわゆる公僕である。しかしそんな意識があったのは、私が出会った公務員には皆無だった。それにある所では、民間なら考えられないが、勤務中でも組合の会合が行われていて、勤務中に部署を抜けて、その会合に出ることが容認されていた。

 

私が初めて組合に関わったのは、高校を卒業した後に勤めた本州の繊維会社においてであったが、組合の会合は、休憩時間とか、仕事が終わった時間になされていたから、決して仕事に支障をきたさなかったものだ。だから言葉は悪いが、組合のためなら、仕事をサボっても、黙認されていた状況が、受け入れ難かった。少なくても彼等は国民が、汗して働き、納めた税金で暮らしている。ならば国民のために、働くのが当然であり、決して選ばれた者ではなく、国民の生活のために、働くのが本来の責務だ。

だがそんな考えの者は、誰一人おらず、1日過ぎれば良いとして、特に仕事をしない輩は、

どこでもいたし、私みたいな非正規は、時に何も仕事が与えられないこともあって、何のために、毎日庁舎に出勤しているのかわからなくなる瞬間があった。


そんな所は予算の消化故に、期間限定で非正規を雇用するので、その契約期間が終了すれば、仕事を得るために、民間企業の採用面接に行くことも多かったが、どの民間企業を訪れても、

一様にオーナーに言われた言葉は、役所上がりは使えないという言葉だった。確かに景気の

動向には関係なく、企業努力をしなくても、

労働環境が良く、厚待遇で生活の安定が得られる温室みたいな環境での仕事に慣れてしまうと、常に市場の競争にさらされ、企業努力をしなければ、業績が伸びない民間では、働くことが難しいし、そんな会社のオーナーは、厳しい民間会社においては、役所のぬるま湯体質に染まった者など、雇用出来ないと思うのは当然である。


それ故そういつもすんなり仕事が決まる訳でもなく、そう言われた瞬間は、悔しかったが、

その指摘は的を得ていた。しかし生活のためには、仕事を選んでいられなかったので、きつい肉体労働もせざるを得ず、その仕事が原因で、私は子供が出来ない体質になり、それもまた私が結婚出来なかった要因の一つになっている。


結婚が果たして幸せかどうかはわからない。学生の頃から、仕事で生きると決め、それを厳守

し続けた余りに、女として大事なものを失ったように感じていた。常に仕事は与えられたが、

人生のパートナーは、得られず、今は一人で、暮らしている。独身貴族という言葉が流行した

時代があったが、一人で生きることは、自由だが、気楽ではない。どんなに具合が悪くても、仕事は休めなかったし、何があっても。それらに一人で向き合い、乗り越えていく必要があった。時にそれが苦しくて、投げ出しそうになったが。いかなる現実からも逃れることなと出来なかった。


私の元の恋人が常に苦しい現実から、逃げ続けた末に、家族からも見捨てられ、挙げ句の果てに、老健施設で亡くなった。それは常に困難などからの逃避がもたらしたことだ。そんな姿を見て、私は与えられた現実からは、絶対に逃げないと決めた。それは簡単ではなかったが、そうすることで、自らでは想像すらしない道が、開かれたことは何度もある。まして会社人間を、卒業して、起業すると、それまでは会ったことがない人々との出会いもあり、世界が変わった。


けれどもそれとは引き換えに、私は仕事以外の

大事なものを失った。家族、恋愛、時には友人など、そしてその喪失による痛みは、時が流れても、癒えるものでもない。仕事に生きて

きたことは悔いはないが、そのためにどれだけ多くの犠牲を払い、大きな代償があったことか?それが良かったのか悪かったのかは、わからないが、少なくても家族がない孤独だけが残り、今それと向き合い、暮らしている。

二兎を追う者は一兎を得ずという。中にはいくつものものを得る人もいるが、何かを得れば、

何かを失うのが世の常。望むものを全て手に入れられるものではないことを、痛感する。そして成功とは、もしかしたらその苦しみから、生まれるものなのかも知れない。