幼い頃から、運がなかった。おそらく遺伝だと

思うが、生まれながらに心臓疾患があった。

原因は何か知らないが、父が心臓疾患だか、

病院嫌いで、最晩年になり、白血病に陥り、

心臓に痛みを感じても、心臓に関する治療は

せすに、私は個人経営の町の薬局に赴き、父が

常用していた心臓の強心剤を買いに、行かされた。しかしどんなにその薬を服用しても、症状は変化しなかったので、私は何度も、病院でその治療をしたら良いのにと、感じたものだが、一言居士で頑固な父は、若い時から、他の人の忠告は受け入れない性格だった故に、それも出来なかった。


小児科の主治医に勧められたわけではないが、幼稚園では、他の疾患のために、半年間の入院生活をし、小学校に入れば、学校の中庭に、プールがあり、週に数回ブールでの授業があったものの、母が私が身体が弱いので、プールには入らせないようにと頼み、他の子供たちは、そこに入り、楽しそうに泳いでいたが、私は一切そこには入らなかった。私が住んでいたのは港町で、昔は措定された海が、市営の海水浴場になっていたが、海までは行くが、私はそこて海水浴は出来ず、今でも游げない。


ただ心臓疾患は、何ら治療をしなかったのに、自然と回復していたようだ。運動らしいことを

始めたのは、小学校の高学年からで、父は私の身体を丈夫にしたいという一念で、平らな

住宅街から、高台に続く坂道を、毎日共に走った。寒い日でも、セーター一枚で、その坂の上まで、走らされたのである。軍国教育を受けた父は、とにかく厳しく、その際にも、甘えは許されず、一年中その坂を走るのは正直苦しかったが、その効果もあったのか、次第に身体が丈夫になった。


よくスパルタ教育という。私がクリスチャンになって、初めて知ったのだが、スパルタという名は、古代ローマ時代にあった町の名に由来してはいるが、その言葉はいいわゆる造語である。当時のローマ帝国とその周辺国における子供の教育が厳しかったらしいので、そんな言葉が、日本で生まれたのだろう。今はわからないが、ヨーロッパでは、子供が悪さをしたり、親や教師の言うことに逆らったりすると。容赦なく、その子供は、彼等から鞭で打たれたようだ。


かつて十戒という有名なハリウッド映画があった。旧約聖書にある出エジプトの記録を映画化した作品で、ヨハネが兄弟たちの策略で、エジプトに売られて以降その子孫がその地方で増え続けた。その皇帝は彼等を奴隷として、冷遇し、町の建設に従事させた。数人のエジプトの現場監督のような役割の者が、彼等を監視しており、仕事をサボったり、体調が悪くなって、動けない者に対して、容赦なく鞭打ちを、行っていた。


子供がおらず、夫にも先立たれたエジプトの王女が、ある日川から、子供が入れられていた篭を見つけた。ヘブル人現在のユダヤ人から、救い主であるメシアが現れるという教えを信じて

いた彼等。そんな存在が出現したなら、自らの存続や地位も危ぶまれると危機感を抱いたエジプトの皇帝が、ヘブル人の生まれたばかりの長子を殺害する命令を下したために、多くの子供たちが、無残にも命を奪われた。そこである 女奴隷に生まれた息子を助けたい余りに、その母親である女奴隷が、生まれたばかりの息子を、バスケットに入れて、川に流した。

偶然にも、エジプトの王女が、それを拾い上げて、モーセという名前をつけて、我が子として引き取ったが、映画によれば、その赤子が入っていた篭には、ヘブル人であることを示す布が共に入れられており、それを知った王女に仕えていた召使いが、殺害された。エジプト王を称えるための町の建設が進み、王子として、恵まれた暮らしをしていたモーゼはある時に、自らがヘブル人であることを知り、王子という地位を奪われて、一奴隷として、重労働を、強いられるようになった。


だか彼を重んじていた先のエジプト王が逝去し、その長男がファラオとして、君臨しはじめると、さらにヘブル人に対する扱いが酷くなり、レンガを作るための藁科をも支給しなくなり、彼等にはさらなる苦難が訪れた。モーセは何度もかつての兄であったそのファラオに、ヘブル人を奴隷から解放して、エジプトから、脱出させて欲しいと懇願したが、奴隷なしでは町が作られないので、ファラオはそれを頑なに拒絶し続ける。そしてついにモーセはその頃羊飼いが使っていた杖だけを、持たされて、その地から追われる。辺りは一体の砂漠。水や食糧が乏しくなったモーセは、力尽きて倒れてしまう。そこを通りかかったミディアンに住む羊飼いである姉妹に助けられ、縁あって、その長女と結婚したモーセだったが、エジプトにいた頃に、付き合っていた恋人がいて、その恋人が、王室にいて、モーセの噂を聞きつけて、そのミディアンの地方を離れるように、彼女に忠告し、またモーセを育てたエジプトの王女までも、彼の実母に、彼がヘブル人の奴隷の子供であることを知らせないように嘆願したが、ついにそのヘブル人の女奴隷は、神に対して、偽ることが出来ず、彼女を訪れたモーセに真実を伝えた。その際のセリフが、もし貴方が奴隷の子供だったなら、身体に鞭で打たれた跡があるはずだという言葉で、もしかしたらそんな時代から、むち打ちは日常茶飯事だったのかもしれない。これはあくまでもわたしの憶測だが、ヨーロッパにおいては、子供の教育の際に、むち打ちが行われていたのは、その名残だったのかもしれない。だから厳しい教育という意味で、実際にあったスパルタという名称を、日本で使ったのは、悪いことをすれば、どうなるのかを、子供たちに知らしめ、その戒め故だったのではあるまいか?


とにかく私がこどもの時には、体罰は容認されていて、子供が悪さをすれば、親や教師が、

その子供を殴るのは普通だった。今なら、それは社会問題になり、子供の人権を侵害することになるが、当時は子供には人権などなかった。親が家庭では、絶対的な権力者で、そこから離れて、自立するまでは例え親が間違っていても、それには逆らえなかったし、もし逆らえば、鉄拳が飛ふ時代だった。


そんな環境に育ったので、ずいぶんと父を恨んだが、高校を卒業して、勤労学生としての暮らしが始まると、昼夜交代のハードな勤務体制の中、その合間に大学に通っており、学校の試験が近づくと、睡眠時間を削って、勉強したものだ。その余りの厳しさに耐えかねて、何人もの

若き女工が脱出を試みたが、学費はその会社に

入ってから、1年間だけは、会社から支給されていたので、途中で辞めると、会社が肩代わりした学費を、全額その会社に返還しなければならず、故郷の町を離れる時も、何があっても、途中で帰るな。もし帰って来ても、家の敷居はまたがせないときつく父に言い渡されていたから、どんなに辛くても、そこから離れることは出来なかった。


後に考えてみれば、この時苦しみに負けて、

リタイアしていたら、幼児教育者としての資格は得られなかっただろう。私がその会社との契約期間を、満了出来たのも、父が幼い頃から、

厳しく教育してくれたおかげてある。その時代の経験を思えば、いかなることにも耐えられると思った。


人生は甘くはない。故郷に戻っても、その資格故に容易に仕事が決まらず、資格を生かせる仕事に就いても、保育園の常勤の保母が休んだ時の代替。つまりその保母が休まない限り、仕事の依頼はなくて、私は常に経済的な不安に駈られていたものだ。私が住んでいた町には、市立の保育園の他に、ある篤志家が個人で経営していた保育園もあった。その篤志家と亡き母が同郷で、何度か母はその篤志家に手土産を携えて、挨拶に行ったが、何通もの履歴書を書かされたものの、一度もそのまま保育園の採用面接は受けられなかった。すべからくコネが物をいう世界だった。


それ以降も心ならずも、望まない仕事を、せざるを得ず、結婚を考えて、交際していた人とも、色々なことがあって、別離に至り、彼は昨年ある老健施設で、亡くなったらしい。

しかしそれと引き換えに、私は今会社人間から卒業し、フリーとして、働いている。

子供の頃からの悲願だった物書きとして、仕事が出来るまでになり、紆余曲折の末に、ようやく好きなことが仕事になった。意志ある所に、道は通ずという。どんな仕事をしていても、私は物書きになりたいという夢だけは、捨てなかった。いつか実現させてみせると誓い。その時を待ち続けた。生活のために、自分を抑圧したくはなかったし、心に忠実に生きたかった。

それで暮らしがどうなるのかを、全く考慮しなかったから、定期的な収入がない今の暮らしは

時に不安に陥るが、これこそ私が望んでいた働き方であり、やっと手にした自由だ。もう過度に自分を抑圧することはない。他の人々に、

私が何者なのかを知らしめるためには、自己

アピールは必要であり、いかに他との差別化を

図るのかは極めて重要である。他と同じことをするのが嫌いだった私には、打って付けの働き方である。ビジネスを知らずに、起業した苦労はあるものの、それも仕事上の目的を達成するための道標。過程に過ぎない。


ここに至るまでには、辛い別れや数多くの挫折があったし、時には心が折れそうにもなったが、夢は実現させるものだと信じていた。

故に今自分らしさを取り戻しすべく、様々な

試みをしていることと、その機会が与えられていることに、感謝である。一人で生きるのは大変だし、人生という荒海を航海することは至難の業であるが、仕事に懸命に生きた両親の志しを受け継ぎ、最終的には仕事で成功出来たならと、願っている。







の目的