私が教会に通い始めて、すでに35年にはなる。

小学生の時に、一度だけプロテスタントの教会である公共施設で行われていた日曜学校に、

参加したことがあった、今でこそ町の住宅街に 白い壁の聖堂が建てられているが、当時は開拓

伝道をしていて、街角に牧師とその家族が立ち、キリスト教の教えをマイクで、通行人に

向かって呼びかけたり、安い料金で借りられる

公共施設で、日曜学校を開いて、子供たちへの

布教活動を行っていた。おそらく信徒も少なくて、運営的にも苦しかったのだろう。プロテスタントでは牧師の副業は、認められていたので、その牧師は生活のために、置き薬の販売をしていた。置き薬とは、それを専門とする製薬会社が、様々な薬をセットした薬箱を、契約している家庭に販売し、その在庫がなくなったり、足りなくなると、定期的にその家族を訪問して、不足分を補充する仕事である。私が住む町には、まだそんな置き薬がある家庭が何軒かあり、一度契約を結べば、それを切らない限り、永続的にその会社には、利益がもたらされる仕組みである。その牧師はその仕事で、多くの家庭を訪問する度に、宣教をしていたに違いない。道端に立って布教する路傍伝道よりも、個別に宣教した方が、キリスト教についての話は、聞いて貰えるからだろう。


今もそんな二足のわらじで、暮らしているのかは知らないが、開拓伝道から生まれた教会は、

私が暮らす町には、いくつかある。


さて私が初めて訪れたのは、町で最も歴史の古い教会で、今はないが、福井県の出身で、道内でいくつもの事業を起こした山田誠が、道内の

至る所に自生する白樺に注目し、それを川を

使って、渡し船で運ばせ、呼人から、町の市街地を結ぶ地区の一角に、工場を建てて、その白樺でマッチの軸木を作っていた。町には映画のモデルにもなったかつての極悪犯を収用していた刑務所があり、その囚人を安い工賃で雇用していたらしい。山田誠は実は熱心なクリスチャンで、日曜日は仕事を休ませて、その工場の一角に、従業員を集めて、お祈りをしていた。

そのうちに確か釧路から、伝道師を呼び寄せて

礼拝を始めたのが、現在私が属している教会の

発端となった。すでに宣教130年は過ぎ、聖堂も町のいくつかの地域に、移ったものの、二十数年前に、現在の住宅街に新しい建物を建てて、信仰の灯火が守られている。


私が親に隠れて、その教会で聖書を学び、

4年が過ぎた頃、当時いた牧師から、洗礼を

勧められた。信仰は個人的なものであると、 思っていても、いざ洗礼を受けるとなると、もし

それが親に知られたから、どうなるのだろうという恐れも生じた。私の両親は大の宗教嫌い 

だったからだ。私が躊躇していると、その牧師は若い頃に親しくしていたという旭川が、

生んだベストセラー作家である三浦綾子が

サインしたエッセー集を貸して下さった。

それを読んでいるうちに、戦時中に教師として、軍国教育に携わり、敗戦と共にそれが間違いであるとされて、自分は何をしてきたのだろうと、罪の意識にさいなわれ、自暴自棄に陥り、二重婚約までした結果、その頃は不治の病と恐れられた結核にかかり、ギフスベッドで

暮らすという辛い時代に、彼女のために祈り

続けた恋人やその恋人亡き後に、ある短歌の会の作品集を通じて、知り合った後にご主人となる営林署職員だった男性との関わりにより、 その苦境から脱して、結婚した彼女が、いかに自分が主婦としてふさわしくないかを、正直に

書いたエッセーで、そこには家事も出来ず、

部屋の片付けも苦手、おまけに健康でもない

自分と結婚してくれたご主人に対する感謝と、 そんな自分でも結婚出来たのだから、世の

女性たちは、劣等感に悩まずに、自分に自信を持つこと、少なくても自分よりも、多くのものを得ているから、好きな人がいたなら、結婚 したら良いという内容のエッセーで、私はこの

一説に多いに励まされ、ついに洗礼を受ける

決意をしたが、洗礼名を決める段階になり、

どんな名前にしようかと、考えていた。本来は宗教上の親が、それをつけるのが慣例なのだが、大陸からの引き揚げ者で、極めて寛容だったその牧師は、その洗礼名は私自身が決めても良いとおっしやられて、新訳聖書にあるイエスがマルタとマリアの家を訪れた際に、来客だとばかりに、忙しく立ち働くマルタとは対象的に

イエスのそばで、黙ってイエスの話を聞いていたマリアの姿に、敬虔な信仰を見出だし、性格的には、マルタに近いけれど、イエスの話に、平安な面持ちで、耳を傾けるマリアにあやかりたいと願い、洗礼名はマリアになった。この名前は教会には、とても多いし、ありふれているけれど、今でもそれは気に入っている。こうして私はクリスチャンとしての人生を、歩き出したが、嵐やトラブルに、何度も巻き込まれて 信仰がぐらつきそうになったことも、数知れない。そんな時には、いつも神の導きと助けが 与えられて、現在に至る。それが何よりもの 感謝である。故に仕事上様々なサイトに登録する場合に、ニックネームを使う必要があれば、 迷わずこのマリアという名前にする。時には

本名を伝えなければならない状況に陥るが、

そんな時には、プライバシーを守るために、

他に個人情報か漏れないように、本名を安心して、名乗れそうなサイトで繋がるようには、

心がけてはいるが、果たして聖書に出てくる マリアみたいに、信仰が成長しているかどうかは、私にはわからない。それを知っているのは 但し神だけであろうからだ。




名前の由来は

 

 

 

 

 

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