子供の頃から、とても不器用だった。今は

仕事もあり、やらなくなったが、中学くらいの時には、手芸クラブに入り、刺繍なとをして

いた。手先が器用で、よく浴衣や丹前などを

作っていた母が、洋裁とかお料理を習うように

勧めたが、どんなに家族のために、働いても、

お金がなくなる度に、けんかになり、挙げ句の

果てには、「誰のおかげで、生活出来ると思っているんだ。文句があるなら、俺くらい稼いで来い。」と怒鳴られて、よく母が父に殴られていた

光景を目にしていたから、結婚に対しては、幻滅しか感じられず、それでも女にとり、結婚することが大事で。そのためには女は家庭的で

ある方が良いと考えて、そんな言葉で、私に

花嫁修行をさせたがっていた母に、反発して、

結婚しても、古い家父調制に捕らわれ、家では

家長が偉いと傲慢に振る舞っていた父のもとて、どんなに酷い扱いを受けても、じっと耐え続けていた母の姿を見て、戦後の民主教育を 受け、男女は平等であるべきだと、思っていた

私は結婚は、女の墓場のようなものだと、感じており、男性にとり、都合が良いだけの存在にはなりたくなかったし、職業婦人で常に仕事を

優先させてはいても、収入の上では父との格差があり、経済力においては、父に負けていた母が、人としても、女性としても父に罵倒されていたので、経済力がないことがいかに惨めで、

非人間的に扱われるかを痛感して、絶対に結婚

なんかしない。私は社会で成功し、生涯仕事で

生きると誓った。故に女は好きな人と結婚するのが良いという思想の母を、受け入れられなかった。今では考えられないが、父は家のことは、ほとんどしなかったので、どんなに具合が 悪くても、母が全ての家事をしなければならす、仕事以外の家の雑事すらも、私から見れば

完璧にこなしていたので、肉体的にも疲労し、 時々その痛みを訴えることがあった母に対しては、他にも働いている主婦がいることを父は

指摘し、それなら仕事を辞めれば良いなどと、

働く女性を侮蔑する言葉を投げつけていた父を

許せず、男性に依存せずに生きていこうと決めたことも、花嫁修行をさせたがっていた母に、

反抗していた大きな理由だった。


しかしこれにより、後に交際していた人から、

料理が上手く出来なかったことで、女としての

躾がなされていないと言われる要因になったし、家庭内において、次々に災難が続き、救いを求めて、扉を叩いた教会で、日曜日の礼拝のために、祭壇に飾るお花を生けて欲しいと、今は亡き老信徒に頼まれても、それに応じることが出来ない大きな原因となった。偶然にもその

教会の信徒だった老婦人は、幼い頃から家族

ぐるみでお付き合いしていた家の主婦で、生け花の師匠だったから、よくそれを習うようにと

勧められたものだが、私自身はそれを拒否しており、その心得もなかったので、教会てさえも、お花を生ける必要があることを知り、困惑したものだ。とにかく私は、親や恋人だった 男性が望んでいた良妻賢母の素養など、全くないキャリアウーマンを目指す女だったのだ。


それに幼稚園の頃に、お絵描きの時間に、当時の担任から、私がクレヨンで描いた絵を酷評されて以来、絵を描くことが苦手になり、大学では絵の授業があり、デッサンから始まり、最終的には自らが選んだ油絵の模写まで。させられたが、授業中は数人のグループで、木の机に座り、時にはスケッチブックまたある時には、

キャンバスに描いていた絵の仕上がり具合などを、担当教授が各机を回りながら、観察する

ことが特に嫌で、その度にわざとにそれらを、

手して隠して、見せないようにしていた。その時点でまさか会社を早期退職して、フリーとして働くようになろうとは、予想していなかった。資金もなく、起業して、初めて商品を良く見せるためのデザインとか、コーディネートの重要性を通感し、その素養がなかった私はとても苦慮したが、その道のプロを雇う資金力もなかったので、様々なデザインに関するアプリを見ながら、それを参考にしつつ、自らで様々なものをデザインし始めた。この瞬間にいかなることでも、取得すべきであることを実感した。自宅の近くに、学校で美術を教えており、自らも画家として活動していた元教師が、住んでいて、絵を習いに来るように言われていたが、先のように絵に対しては、強いコンプレックスがあり、幼稚園の担任だったクールビューティーの先生に絵について、酷評されたことが、トラウマになっていたので、自分には、絵の才能がないと思い込み、せっかくのお誘いを拒否し続けていた。もしその時に素直に、その忠告に従って、絵を学んでいたなら、人生は変わっていたかもしれない。どんなことでも、教養として、身につけておいた方が良いと、悟った瞬間だった。


先の教会における生け花も、正直にその心得がないことを伝えて、我流で生けても、それを非難する者はいなかった。それがありがたかった。親に隠れて、聖書を学んだ後に洗礼を受けて、クリスチャンになったが、宗教嫌いの親には、事後承諾という形で、それを報告したから、親は驚き、色々と誹謗中傷された。他人なら、遠慮して言わないことでも、家族ともなれば、そんな気遣いはなく、若い時には寺院などで、宗教哲学を学んだと豪語していた父でさえ、それが身につかず、道端に地蔵が多く建てられている宗教的な雰囲気の山間の村に育った母に、粗父母の命日には、小さな遺影が置かれていた棚に、お酒を捧げるように勧められても、それに従わなかった父が、母がガンで亡くなってからは、毎日仏壇に線香を上げて、祈るようになり、人も変わるものだと驚いた記憶が

ある。


とにかく何でも出来る器用な親に育てられると、何でも出来て当たり前だと思われて、親の期待に沿わなければ、人として扱われなかった。故に私は苦手なことがとても多く、起業してからは、その苦手なことを、優先的に行う

必要に迫られて、苦慮したものであるが、プロとしてはお客様から、お金を頂き、商品を販売

する以上例え苦手であっても、無責任にそれが

出来ないとは言えないし、それを克服しないと、ビジネスとしては成り立たない。しかし

それにより、出来るようになるまで、努力しようと考えて、浅知恵を絞り、商品のコーディネートや告知文を考案する時間が、次第に楽しく

なってきた。出来ないと思い込んでいたが、それは苦手意識故に、やらなかっただけで、人には不可能なことはないという真理が、これらの

経験からも、証明されている。今でもその道の

プロに依頼すれば良いのではという思いが、

脳裏をかすめることはあるが、コスト面を考えると、上手ではないけれど、自分で何でもした方が、他との差別化が図られ、独自のオリジナル性が表現されると、勝手に思っている。


だから自らで仕事を始めた頃から、オリジナルのブックショップというキャッチコピーを多用し、手作りをコンセプトに、商品作りをしている。私が住む町でも、一時期絵手紙が流行して、いくつものサークルが出来たが、その

サークルのモットーは、下手でも良い。下手が良いというものだった。この言葉に初めて触れた時に、私はそれまで心を苦しめていた自らが

不器用であるというコンプレックスが消えて、

ありのままの自分で良いのだという確信を得て、それが自信にも繋がった。私も何度かその

絵手紙には挑戦したが、絵心がないので、長くは続かなかった。けれども失敗を恐れて何も

しなければ、進歩や人間的な成長はない。

元々は思い立ったら、即行動するタイプだ。

私がやってる商いは、飽きずにこつこつと継続することが大事で、だからこそ時間がかかっても、結果が出るのだろう。それに何かを始めない限り、道は開かない、悩んでいても、苦しい

状況は変わらないのだ。ならば何度もトライして、失敗を重ねた末に、見えてくることはあり、それが上手くいけば、その労苦は報われる。実際に仕事を始めた当初は、ほとんど売れなかった私の本は、出版社を通さない自費出版であるにも関わらず、新刊を出す度に購入して

下さるお客様もいるし、SNSの普及に伴い、

オンラインを通じて、知り合った方の一部からも、そのオーダーがあり、先日それを発送した。コストをかければ、一時的には集客は

出来るだろうが、それは線香花火の如くに、その場限りのこと。長くお付き合いするには、

地道でも、自分らしく人々に対することが、何よりも重要である事実を、私はこれまでの数多くの経験や失敗から、学んでいる。少しずつ

ファンが増えれば良いし、その方が信頼を得られるのではないだろうか。そして一度得られた

信頼は、揺るぐことはないと信じている。

安定した経営の難しさは、痛感しているが、努力は必ず報われると信じて、今日も自分に正直に自分らしいペースで、仕事をするだけである







私の苦手なこと

 

 

 

 

 

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