亡き両親は、若い頃から実によく働いた。

母の実家は東北の農家だったので、戦時中も

食料には困ることはなかったらしいが、漁師の

家に生まれ育った父は、その間は食料難で、

貧しさ故に、父の姉私の叔母に当たる女性は、

ある店に売られた過去がある。彼女はその

仕事故だったと思うが、子供が出来ない身体になり、妻子のいた男性と深い仲になり、その 男性に見受けされたものの、いわゆる事実

婚で、最後までその男性とは入籍はしなかったようだ。生活の貧しさは、本当に人の人生を変

える。そんな時代に生きて、貧しさの苦しみを

体験したためか、両親はさほど収入がなかった頃から、少ない給料からも、コツコツと貯蓄していたものだ。


子供の時には、学校から帰っても、母がいない

ことに、とても淋しさを抱いた。生活優先で、

仕事のためには、家族が共にいる時間が、

少なくとも、我慢を強いられたもので、本当は

いつも母が家にいて、そこに帰ると、笑って

迎えてくれ、「おやつがあるよ。」という優しい

言葉をかけてくれるごくありふれた家庭像を、

求めていたが、母にはついにその本心を、

伝えることが出来なかった。


お金のため、より良い暮らしをするために、

子供が犠牲になる。それでお金を貯めたところで、契れそうな家族としての絆は、取り戻せるのか。我が家の場合には、母も働かないと、

生活出来なかったけれど、昨年老健施設で、

亡くなった元の恋人は、離婚した妻との間に

子供が多くて、ただの職人だったのに、些細なことがきっかけで、彼自身は望んではいなかったようだが、起業することになり、従業員が少ない小さな会社のオーナーとして、働き出した瞬間に、仕事が次々に舞い込み、彼自身の話で、少し自己過信がある性格であったから、それが事実か否かは知らないが、多い時で、年商が一億になった時代もあったらしいが、彼は生来貯金が嫌いだったから、パブルが弾けたとたんに、業績が悪化して、会社を設立してから、わずか6年でそれが、倒産し、それまで暮らしていた彼が建てたアパートはおそらく会社設立時に、融資を受けた銀行の抵当に入っていたのだろう。差し押さえに合い、彼は会社ばかりではなく、住む所さえ失い、無一文に陥って、当時新興住宅街だった町の高台の部屋が3つしかない公営住宅に移り住むことを、余儀無くされた。


それに引き換え、両親は苦しい生活をしつつも

将来を見据えていたのか、いくつもの保険に

加入し、昔は銀行振込ではなかったので、毎月

保険会社の外交員が、その保険料の徴収のために、我が家を訪れていたが、私が知る限り、

その支払いが滞ったことはない。その代わり

徹底した節約で、無駄な経費を削減していた。

例えば仕事で疲れていた母は、時折居間の

長椅子で眠りこけていたが、冬ならばいつまでも部屋の灯りをつけ、ストーブを炊いていれば、電気や燃料費がかかるから、よく父に、

それを指摘されていた。とにかく早くに寝室で

休めば、それだけ家計の節約になると言うのだ。私が高校に入った年に、初めて家が建った

のも、こうした小さな積み重ねにより、資金を

貯めていたからで、確か住宅金融公庫の抽選には、何度も落選して、住宅ローンを利用して、

家を建てたが、7年ほどで、その返済も終わった

はずである。このようにして、住む家と猫の

額ほどの畑そして父が端正込めて育てた植物が

植えられた庭が残された。


数十年前に、彼等が相次いで天に召され、その

後を継いだ私は、それらを全て管理する責任を

強いられているが、大変ではあるけれど、

春になれば、庭の木々が芽吹き、最初に咲く

黄色の水洗を見つめていると、長い冬の終わりを実感するし、小さな畑に、野菜の種を撒けば

時期が来れば、そこから芽を出し、晴れたり、

雨が降る度にそれらが成長し、数ヶ月後には

収穫出来る。取れたての野菜は、新鮮で甘く、

その恵みに感謝である。


ある程度まとまったお金も残してくれた両親

だが、それよりももっと大事なこれらのものが

その魂が感じられる両親が、私に残したかけがえのない遺産だ。自然にある樹木は野ざらしでも、強く生きているので、ある時期から、庭の

雪囲いは止めて、自然な状態にしたので、枝が

細いシャクナゲなどは、その枝が折れたり、

それが横に広がったりして、その下に生えてくる憎き雑草を取り除くのが、大変なのだが、

それでも木々らは土に深く根を張り、生き延びている。その強さに感動し、いつも慰めが、

与えられる。富裕層みたいに大きな資産があるわけでもないが、私にはこの両親の深い思いが

込められた自然こそが、尊い遺産であり、それを守り通すことが、彼等が存命中には、なかなか出来なかった親孝行だと、思っている