親が生きていた頃は、庭の手入れには全く
興味がなかった。マイペースで協調性がない 父は、何事においても、他からの忠告は聞かない頑固者。たから幼い時から、父の機嫌を損ねないように、生きてきたのて、それに関しては
一切干渉せずに、父の好きなようにさせていた。時々私たちが、その作業に協力しないことを愚痴っていた父だったが、それは職人故の
気難しさがあったためて、もし父がもっと柔軟な性格であったなら、私もそれに興味を抱いていたかもしれない。ところが人生とは時に皮肉で、そんな父がガンで亡くなり、私が家を継ぐと、それまで父がやっていた庭の管理を、私が
全面的に行う必要が生じてきた。人に教えるよりも、それに慣れている自分がやった方が良いと思い込み、それを私はほとんど教わらないままに、父と死別したために、その方法が分からずに、当初は本当に困惑したものだ。
しかし幸いにも、私が暮らしていた地域では
その多くが庭付きの戸建て住宅が、建ち並び、
庭の手入れの方法を知ってる者がいたから、そんな人々から、それを聞きながら、私なりに
時には失敗しつつ、それを覚えていった。
けれども今でも難しく、技術を用するのは、庭にある木々の剪定である。その作業を熟知している人々は、ただ伸びている葉などを、切り落とせば良いと言うが、その仕上がり具合を想定しながら、それらを刈り込んでいくのは、簡単なようで難しく、特に我が家は一部を除いて、高くて上に葉が繁ってる木ばかりだし、亡き父がその作業をする際に使用していた父の手作りの木製の脚立は、その木が腐って壊れてしまったので、使えなくなり、ホームセンターで販売
されている脚立は、少し高価なので、資本が ない所で、起業した私には、手が出ないから、
そこでその作業で用いる高枝ハサミを購入するが、数回使用するだけで、不具合を起こすし、
そのホームセンターでは、庭の手入れなどに
使う様々な道具が壊れた際のメンテナンスは
していないので、何度も安い高枝ハサミを購入し、その作業に当たっていた。特に厄介なのは、我が家が建った頃に庭の一角に植えられた梅と紅葉の木々の剪定で、いくら高枝ハサミの
丈を伸ばしても、最も気になる突出した枝には届かず、中にはそれが太くなって、馬力のない
安い高枝ハサミでも、切れないこともあり、
毎年それらの木々との格闘は、続いている。
無店舗経営だから、特にプライベートにおける
イメージは大事で、庭の木々が綺麗に剪定されており、雑草がない状態で、庭が整備され、
そこに多くの種類の花が咲いている光景は、誰からも好印象を持たれやすく、それだけでも
仕事上の宣伝になる。だから時間があれば、
庭の手入れをしているのだ。
何度か園芸店にその作業を依頼したことが
あったが、そこはプロ集団である。少ない従業員で、一つ一つの樹木を、全体のバランスを
考慮しつつ、剪定していて、その技術の高さと
計算された作業工程に、感嘆したものだ。
その手間賃は、それなりの額だったけれど、
それに見合った仕事ぶりであった。やはり
餅は餅屋である。何事も熟練したプロには
敵わないことを実感したエピソードだ。
今年も秋まで、この剪定作業は続く。現在闘病
しているある町に住む古い友人が、夏になったら、私が暮らしている町を訪れたい。その際にはお茶会を開催して欲しいと、リクエストされている。先月手術をして以来、その後の経過は
全く知らされていないし、もしまだ病院生活をしているのであれば、無論携帯電話は、病院には持ち込めないので、どこにも連絡出来ない
状態であることは想像される。何度か今年中に
その友人が回復して、望みを叶えてあげたい。 そのためにも、数時間の作業でも疲れてしまうが、毎朝起きて、庭を眺める度に、上手くは
ないけれど、親が残したその庭を整備しないとならないと痛感している。