私が生まれ育った家は、貧しい時代もあり、
おひな祭りの時には、雛人形は家では飾られず、無論端午の節句でも、兜はなかった。それらが高額で、買えなかったのである。だから
幼稚園の時に、園児たちが、それぞれの扮装をさせられて、雛壇に座らされ、写真を撮影されることに、とても抵抗があった。またクリスマスに、おいても、豪華な飾り付けなど出来ず、
ある年齢までは、クリスマスケーキすらなかった。お金がない故に、母も働かざるを得ず、
それは私たち子供の孤独と引き換えに得られる
経済力だった。お金があるか否かという理由だけで、富む者は優遇され、貧しき者は差別される。そんな風潮に抵抗し続けながら、生きてきた。そんなことで、人を判断出来るのか? 現在でも、一部の富める者のために、多くの貧しき者が苦労する構図は、何ら変化もない。税制だって、低所得者に、多くの負担があるのが、現実だ。
そんな育ち故なのか、私はセレモニーが好きである。幼い頃から満たされなかったことを、
潜在的にそれにより、満たそうとしているのかもしれない。だから誕生日は自らでアピールして、お祝いしてもらいたいのだ、
しかしかつて交際していた人は、とにかくセレモニーが嫌いで、二十代で結婚した時にも、結婚式はやりたくなかったらしい。そんな性格なので、私が言わない限り、誕生日には、プレゼントするという発想もなかった。いつだったか彼が私の誕生日に、小さなショートケーキを一つだけ買って来てくれたことがあった。暮らし
向きが悪かった頃だったが、それでも私のために、なけなしのお金を叩いて、買ってくれた私が大好きなショートケーキ。二人で一緒に、
食べたいと願っていて、一つしかないのかと、尋ねた私に、彼は言葉を濁した。おそらく
一つしかそれが買えなかったのだろう。
でもどんな誕生日であっても、その彼の優しさに、私は強く胸が打たれた。
彼から誕生日を祝われたのは、その時だけだったが、今でも忘れられない誕生日であった。