高校卒業後に、思いがけず大学の幼児教育学科に進み、子育てについて学んだ。よく3つ子の

魂100までというが、私はそこで乳幼児期に

おける親を含めた大人との関わり方で、大袈裟に言えば、子供の人生が左右されることを知った。私自身は軍隊みたいに、家長である父には絶対服従で、私は幼い頃から、自らの人格や人権が認められたと感じたことは、一度もない。常に支配と抑圧の中で、生きてきたから、本当の自分をなかなか表現出来なかった。


その殻を破るきっかけになったのは、昨年他界した元の恋人との関わりであった。彼は私が自分自身であること、自分に正直に生きることを、私に求め、よく[俺に従うな。]と、言っていた。彼は職人でありつつも、既存の価値観に従うことを嫌い、独自の生き方を、常に模索していた。


彼とは様々なことがあり、別れるに至った時は

多くの問題があり、それすら解決する気力すら、失われた彼との関わりを、しなくて済むという解放感を抱いたけれど、次第に心に穴が

空いたような空虚感に襲われた。悪気はないが、誰かが私に、彼の動向を知らせてくれる

度に、心は悲壮感に覆われたものだ。


更に私を苦しめたのは、度重なる両親の病いで、常に健康には気をつけていた彼等は、

ガンに陥り、発見が遅れたので、いすれも、

手の施しようがなく、余命宣告された。症状が

良くなることがなく、死に向かって歩んでいた

彼等の看病は大変であり、本来は気が弱い

性格だったので、ガンである事実を受け止められず、母は小康状態になった時に、入院は

もうしたくないと言い張っていた。もし再度入院したら、生きて自宅には戻れないと、

思い込んでいたからだったが、ある真夜中に、

自宅で倒れ、地元にある総合病院に、緊急搬送されて、1ヶ月にも満たないうちに、この世での

旅を終えて、天に召された。


不運だったのは、その病院には呼吸器科が

なかったために、当然その常勤医はおらず、

末期の肺ガンだった母に、適切な治療がなされなかったことである。私たち家族には、何も

知らされずに、絶食療法をされたり、若い頃に

骨粗相症で、骨が脆くなっており、おまけに

腰を圧迫骨折していた母の体位の交換の際には

丁寧に彼女の身体を動かしてほしいと、頼んで

みても、大半の看護師はぞんざいに母を、扱っていた。個人的に怒りを感じたのは、理由も

告げすに、母の入れ歯を強制的に取り外した

ことである。まだ意識があった頃は、患者で

ありながら、母は看護師に過度に気遣っていたにも関わらずである。


最終的に、ナースセンターの向かいに病室を

移され、個室になった部屋で、母は何も苦しむこともなく、眠るように息を引き取った。

夏祭りが終わった時だった。その後を追うように、父も亡くなり、実家を継いだ私は、深い

喪失感を感じ、それから十数年過ぎた今でも、

そこから癒されることがなく、過ごしている。

親との死別が、こんなに淋しくて、辛いこととは思ってもみなかったし、それまで私は死に、

立ち会うことを意識的に拒否し続けてきたから、両親の臨終の場にいたことにより、初めて

死に向き合ったのである。不思議と涙は出なかった。もしかしたら遺族として、その後に続く、葬儀においての葬儀社や弔問客との対応を

考えていた故だったのかもしれない。


しかし葬儀やそれから数年続いた法事が終わった段階で、改めて私は一人だ。これからは、

一人で生きていかないとならないと思った瞬間に、抑圧のしていた悲しみが溢れ出して、数日間泣き暮らしていた。しばらくは放心状態で、

何も手がつかず、遺品の整理も出来なかった。


これまでどのくらいの別れを経験してきたで

あろうか。幼少期に受けた体罰という名の暴力による強いトラウマのために、容易に人には

心を開けず、人と同じことをするのが嫌いだった私には、友も少なく、積極的に出会いを求めるタイプでもなかったので、今に至るまで、

心の空白を埋めるものが、見つからない。


年齢を重ねれば、別れの機会も多くなる。

両親の死後、葬儀に参列することも多くなったものの、親の死を乗り越えられていない私は、

時に遺族にかける言葉が思い浮かばす、会釈

程度に留めることがある。どんな言葉であっても、それが形式的なものなら、その遺族の心には届かないと、思っているからだ。


本当に別れという喪失体験ばかりの人生だったが、今後新たな出会いはあるのだろうか?

それは神のみぞ知ることなのかも知れない。