高校を卒業してから、比較的に肉体労働が

多かった。そこでは学歴なんか関係なかった。

私は自らの意志とは関わりなく、大学に進学し

幼児教育者としての資格を取得して、故郷で

ある北海道に戻ったが、当時は地元では就職の

際には、大卒はどの企業の人事担当者にも、

嫌がられた。人件費の問題があったからだ。

それにまだ学校間格差があり、高校においても、公立と私立は区別され、序列があった。

今はどうなってるのかわからないが、当時は

某老舗銀行でも、地元の優秀な者が集まる

ある進学校の生徒を、メイトに採用していて、

それ以外は、他の企業の面接を受ける必要が

あった。故に働きながら、大学に通い、資格を

取得しても、卒業後は容易に仕事が決まらなかった。私自身幼児教育者になど、なりたくは

なかったからだ。


生きるためには、どんな仕事でもやったが、

個人経営の中小零細企業が大半の町である。

経営側は身内ばかりで、いわゆる身内びいきを

していた会社が多かった。ある水産系の会社で

働いていた時のことである。肉体労働の仕事が

なくなると、非正規で短期間ではあったが、

官庁で働いていたことがある。公務員は本来

公僕で、市民に仕えることが、仕事であるのに、特に若い職員を中心にエリート風を吹かせている者が多かったし、組合の役員ともなれば、勤務時間であっても、その組合の会合が

あれば、優先的にそれに参加していた。


私が本州にある繊維会社で働いていた時も、

組合の役員に選ばれたことがあるが、その

会合は、休憩時間とか、仕事が終わった後で

行われていて、仕事には全く支障をきたさなかったので、仕事をさぼつてまでも、そんな会合に参加することが赦される環境に、とても

違和感を抱いたし、当時私は職員の出張伝票の整理やそれに関する帳簿付けの業務をしていた。その帳簿には、誰がどの期間、どんな

目的で、出張したかを明記することになっていて、お役所という所は、庁舎を出たら、出張

扱いになり、その理由はいずれも判で押した

ように、研修となっていた。しかも出張費が

支給されているにも関わらず、それが真実か

否かを調べることもなく、その部署の責任者の

認め印を押捺するだけで、通用していたので、

一時期マスコミなどで、取り沙汰されていた

空出張が起こりうるわけだ。だから出張費が

支給されても、実際には出張しなくても、

何らおとがめはないという状況だった。その

財源は市民の血税である。公僕という意識が

欠落しているから、そのようなルーズなことが

まかり通っていたのだろうし、雇用や給与

体型が安定しているから、1日中働かない職員は、どの官庁にもいた。民間企業ではありえない実態だった。


また他の官庁で働いていた時には、来客があっても、そこにとり、都合が良い者には、お茶を

出すが、そうでない者には、お茶を出さなくても良いと指示され、当番になれば、1日4回も

お茶やコーヒーの類いを、そこで働く人々に

出さなければならなかったが、所長が一番

良いお茶で、その他は好みで、それらを出して

おり、それらを覚えるのも大変だったし、直接

雇用と派遣とでは、全く扱いが異なっていた。

当初は他からの出向という形て、働いていたが、非正規として働いていたのは、例えば

どこかの銀行の管理職の妻など、いわゆる

お金持ちの奥方が多く、当番性でその日の

お茶の準備や片付けをしていたものだが、

私は直接雇用ではなかったので、意図的に、

そこから除外されていた。生活のために働いて

いた者がいなかったし、お局様がいて、君臨していた職場だった。そこはお金に関わる所で

あり、権力が集中していたので、職員は権威を

振りかざしており、私は数ヶ月の勤務だったが、どんなに生活が困窮しても、そんな職場では二度と働きたくないと思った。


さて先の水産系の会社でのことである。官庁に

おいては、常に誰に対しても、敬語で話していて、それが習慣になっていた私は、その現場でも敬語を使っていたら、気取っていると思われたのだろう。先輩から苛められた。どの肉体労働の現場でも、一つのミスが、ケガや事故の

原因になるので、誰も丁寧な言葉使いはしない。朝から怒号が飛び交い、気が弱い者は、

厳しい現場においては、勤まらない。それに

身体を使って稼ぐ者は、ぬるま湯のような

環境で働く者らに対するコンプレックスもあり、私が官庁で働いた過去があったことで、

毛嫌いする者もいた。そして同族会社の弊害は

経営側が尊大になりがちで、要領か良い人は、

そんな者たちに、媚びへつらうが、私はそれが

何より嫌いで、例え経営側でも、間違いを侵したり、理不尽なことがあれば、それを指摘していたから、彼等にはいつも睨まれていた。


最後に勤務した会社は半官半民で、雇用条件が

悪く、私が在籍していた頃は、24時間稼働して

いたから、誰もが交替勤務で、その日により、

勤務時間が異なっていた。低賃金でもあり、

私は早朝勤務だったが、上司などによるパワハラは日常茶飯事で、そのために辞職する者さえ

いた。特に早朝は仮に入社しても、長く続かないことから、障害者雇用もしていたものの、

作業所と違い、そんな人々は他の人が出来る

ことが、その障害故に出来ないから、よく上司に怒鳴られていた。そして会社は私がいた部署に、そのようなコミュニケーションが出来ない

人々を配置した。言葉の意味が理解出来ない。

何が正しくて、何が間違いなのかが判断出来ない。障害故に、朝起きられず、無断欠勤や遅刻を繰り返しても、それに対する罪悪感もない。

勤務中でも、仕事が嫌になれば、周囲のことは

考えずに、それを放り出す。思い込みが強く、

判断能力がないと言った人々と関わることは至難の技で、苦労も多かったが、幸いにも、

私はそれまでプライベートで、何人かの障害者と接した経験があったから、彼等の障害は、

その一部であり、いかなる人にも可能性があると信じて、試行錯誤を繰り返し、彼等が自ら

だけで、仕事をする環境を作った。それは本当は管理職の仕事だが、面倒に感じて、彼等に

関わろうとはしなかったから、私がやらざるを

得なかったのだが、上司の中には、それに不満を抱く者もいた。私がその立場を歪め、出し抜いたと思われたのだ。だが長い間肉体労働の

過酷な現場で厳しい先輩らに、鍛えられてきた私には、怖い者はなく、文句があるなら、障害者がその良さを生かして、働ける環境を作れば

良いし、彼等を人材だと思うなら、仕事が出来るように、指導することが管理職の仕事だ。

だから手当てを支給されているではないかと、日頃から痛感していたので、何ら怯むことは

なかった。結局会社は私の性格、困ってる人の

世話をするーを利用し、自らが楽をしていたに

過ぎない。


早期退職して良かったことは、そんな人間関係のしがらみから、解放されたことだ。生きていれば、人との関わりは避けられないが、取引先

働く場所、顧客まで自らの意志で選択出来る

今の働き方により、ようやく自分らしい

生き方が可能になった。随分と時を用したし、

苦難を重ね、時には努力が徒労に終わって、

悔しい思いも経験したが、それらを乗り越えて来て、良かったと痛感する。人生はいつでも

やり直せる。これからは失った自分の生き方を

取り戻すために、精進したいと考えている。






人間関係のトラブル

 

 

 

 

 

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