私が住む北海道は、ロシアに近い地域である。

だからロシアが外貨を稼ぐために、建築資材

などに用いる木材を輸入したり、カニ等の

洋上買い付けが行われていた時代がある。

昔海に近いエリアにあった会社で、働いていた

その頃よくロシア人の船員に会った。まだ

ソ連崩壊前だったが、彼等はさほど良い服は、

着てはいなかった。初めて見かけた時は、怖い印象があったが、おそらく家族に連絡するための公衆電話を探していたのだろうが、電話

ボックスがどこにあるかと、尋ねられた瞬間に、彼等も家族を思う普通の人々なのだと思った。


しかし今だに解決していない北方領土問題もあり、道内に住むそれらの島々の出身者にとり、

それらの島々は、帰ることが出来ない近くて、

遠い故郷になった。

根室からは、目と鼻の先に、それらが見えるし

北方海域は、魚の宝庫なので、入魚料を払い、

日本漁船が操業させてもらった時代もある。

けれどもアメリカ追従の政治姿勢が、ロシアの

反感を買い、今では容易にその海域には、

近付けなくなった。


余り語られることはないが、大戦以前は、旧

サハリンら北方領土には、多くの日本人が、

住んでいて、中にはそこでの商売に成功した

者もいたようだが、ソ連が攻めて来て、住民は

全てを奪われたし、北方領土に関しては、実は

日本政府が、その領有権を放棄したが故に、

ソ連に不法占拠されたのである。それに

その地域に、ソ連はロシア人を移住させ、

軍事基地まで作ったので、いくら返還を求めても、日本政府が、その領有権を放棄したことを

撤回しない限り、日本に返還される可能性は

ない。それを怠ってきた日本政府にも、大いに

問題がある。稚内には、日本最北端の町である

ことを示すモニュメントが、建てられていて、

そこからサハリンが、間近に見える。


ロシアと国境を制する町の悲劇は、いくつも

伝えられてきたし、かつては北方領土を含む

旧ソ連から、引き揚げて来た人々が住む

引き揚げ者住宅が、道内の至る所にあった。

身一つで、北海道に渡って来た人々が、どんな

貧しい暮らしをしていたかを、想像すると、

胸が痛む。そして何よりも、そんな経験者が、

高齢化して、多数亡くなり、当時のことを

語れる人々が、激減しているので、その歴史的

事実を証しする者がいなくなるのではと、危惧

している。どんなに歳月が過ぎようとも、

ソ連が不法に、北方領土を占拠していることを

忘れてはいけないし、そのためにそこで暮らしていた人々が、土地や仕事を奪われ、故郷を、

離れざるを得なかった事実は、何らかの形で、

伝えるべきだと、痛感する。そうでなければ

それは風化されてしまうからだ。島々を返して

欲しいという元島民の悲願があることを、

広く知ってもらうためにも、、、