子供の頃には、蝋燭と言えば、葬儀のイメージ

だった。電気がなかった時代には、蝋燭が、

照明器具みたいなものであったのかもしれないが、その良さを実感したのは、私が教会に、

通い始めてからだ。その頃牧会していた牧師は、大陸からの引き揚げ体験があり、苦労していたようだが、牧師の家庭に、生まれ育ち、その父親や兄が、牧師という環境で、北海道にある国立大学時に、某外国の牧師の勧めで、東京の神学校に行き、聖職者になった。聖職者とは、牧師や神父のように、教会において、信徒に、神の教えを伝え、導き、一般市民に、キリスト教を伝える人々のことを意味する。


初めて会ったその牧師は、とても寛容な性格で、まだ正式には、信徒ではなかった私に、

礼拝において、聖書の朗読をさせて下さり、教派を越えて、一つのテーマで、全世界で同じ日に祈り合うというアメリカで始まった世界祈祷

日にも、参加させてくれたものだ。


家庭内の苦難に打ちのめされていた時に、教会の牧師とその家族が住む牧師館で、出会った

その牧師に、胸の内を語った瞬間に、暖かい励ましの言葉をかけて頂いたその牧師の慈愛に触れ、親に隠れて、教会に行き出した私が、初めて日曜日の礼拝に参加した際の感動は、今で

も忘れることが出来ない。祭壇には、対の蝋燭があり、礼拝時間が近づくと、それに火がつけられる。そして灯されたその光は、冷え切った人々の心を和ませると同時に、聖堂が厳粛な

雰囲気に包まれる。それは仏式の葬儀にはない荘厳な感じなのである。単に照明に用いるだけではない蝋燭の魅力を痛感した出来事だった。


それ以来蝋燭は好きなアイテムの一つとなり、

親が亡くなり、我が家に仏壇が置かれるように

なってからは、可能な限り、そこに置いた蝋燭に明かりを灯すようにしている。その灯りは、

いつも暗い心を照らしていると思えてならず、

それを見つめているだけで、心が癒される。

キャンドルライトの良さは、そんな点に、

あるのかもしれない。