前の女学校に編入出来たが、女学校も空襲で焼失していたが、学徒報国隊で近くの工場に通っていました。ある日何故家に居たのか、日曜だったか判らないが家に居たら伯母、母の兄の奥さん産婆さんでした。その伯母が泣きながら帰って来て悦ちゃん日本が負けたのよ、と言ったラジオで放送していたとの事、でも何故かやっぱりと、思った様な気がした。その時私は女学二年生今で言う中学二年生です。学徒報国隊で工場に行っていたがボルトのナットの錆びを万力で挟んで鑢で削ったり、こんな事が戦争の為にする事なのか疑問に思ったり、していたので割りに冷静だった。

その年の暮れに父が帰り自分が戦争始め負けた様に親戚の前でしきりに、謝っていたのを覚えている。父は海軍の軍人でした。もうすぐ定年だと言う時のことでした。

戦争も激しくなり三月には東京大空襲が大変でした。父も心配になりお前達はお母さんの実家に帰る様に六月末に母の実家の佐世保に向かって荷物そのまま、満員の汽車にやっと乗り母と弟と満一歳になったばかりの弟と私、四人何時間掛かったか覚えていないが佐世保の母の実家に無事にやっと到着した。その夜佐世保の大空襲です。母の実家は高台にあったので無事でしたが、佐世保の町が火の海になっているのが見え伯父の家も全焼でした。伯父の家族も実家の近くに家を借り私達も実家での生活がはじまった。お米やさんも焼けたので配給のお米も焼け米がしばらく続きました。私も弟も前に通っていた学校それぞれ転校出来た。でも弟の学校は燃えて無かったのだが、自分の事でいっぱいで、覚えていない。
時々空襲警報を聞きながら追浜から大津の女学校に通っていました。十一月のある日、学校から上級生は前から浦賀ドックに学徒報国隊で行っています。今度一年生は横須賀の海軍軍需部に十二月一日に、入隊です。頑張る様にと言われああいよいよだなと、思った。それからは土曜日ぐらい学校で勉強したかあまり覚えていない。毎日女工さんと一緒に兵隊さんのハンモックの布団を作っていた。でも空襲警報が鳴ると女学一年生だからとすぐ大きな防空壕に入りする事もなく、非常食を持っているのでかじりながら警報解除をじっと待った事を思い出します。大変な時代でした。

六年生の三学期より、佐世保市木風小学校に編入出来昭和十九年三月には卒業です。振り返ると昭和十八年四月台湾より長与小学校、同年九月に豊橋の小学校

昭和十九年一月は佐世保の小学校随分忙しい一年でした。今度は女学校の入試言い訳ではなく、落ち着いて勉強など出来なかった。でも戦時中のこと口答試験のみで私立の女学校に入学できた。継母の赤ちゃん、私達の弟も四月一日に生まれ又父が横須賀に転勤になりやはり母は、すぐにでも行きたい模様、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて行けず一学期が終わってからと言う事になり、夏休み中にお弁当を沢山作り汽車で横浜に行き父が迎えに来て呉れたので家に行った。住所は横浜市磯子区六浦と言う所でした。私は追浜から京浜電車で大津にある女学校に通うことになった。又転校の始まりです。(ノ_・。)

父の実家、長与小学校六年に編入した。当時昭和十九年ごろ台湾から転校した子は珍しく人気者になった。私も得意になり家の庭にパパイヤや、パイナップルがなった話や台湾人の子供は、公学校に通って日本語を習っている話などしていた。やっと慣れた頃、また、父が転勤で愛知県の豊橋に赴任したと連絡があり台湾では戦地ばかりでしたので、母は喜んですぐ行くことに私と、弟は、又転校です。私達もやっと四人で暮らせることです。反対する理由もなく早速引越しの準備に取り掛かり、当時駅弁などない、飛行機も飛んでない時代汽車で何時間掛かったか覚えていない。おにぎりを工夫して焼いたりふかしたり、なん食も持って行った覚えがある。やっと豊橋に落ち着き、豊橋西小田原小学校に二人共編入出来ました。豊橋弁は面白かった。普通の生活が十二月まで続いたある日母が妊娠したので佐世保の実家に帰ることになりまた転校です。ヾ(@^(∞)^@)ノ