羽田の息子のところに留守番を頼まれ来ています。息子は会社ですし嫁と孫はお友達の結婚式のお呼ばれでハワイです。昼間は犬のミーちゃんとお留守ばんです。やることがなく、外は曇り間もなく雨が落ちて来るでしょう。なんて退屈なのでしょう。ベランダから空港を撮って見ましたが撮れて�いるかわかりません?�
長崎は原爆で、当時は焼け跡が多くバラックでもと家を建てる人がいたので父達は、セメント瓦が必要になると知人三人で長崎セメント瓦協同組合を設立、私も事務員として、長崎市松山町に事務所を構えて親子で汽車通勤を結婚まで続いた。結婚まで会社が休みのときは、弟四人妹一人の子守ばかりであまり楽しいことはなかった。そんな日々でしたので、義母の兄嫁の実家の長男の嫁にと義母の進めに子守より、いいかと不純な考えで二十歳で義母の実家で形ばかりのお見合いで話もしたことなく一ヶ月後に結婚しました。長崎から遠く平戸の先の松浦市志佐町と言う所でした。
私は母を六歳で亡くし結構波乱な人生だと思って居るが今になって思える事だが父も当時は大変だったと思う。三歳と六歳の子供を残し妻に死なれて途方に呉れたことだろう。軍人だった父は仕方なく二人の子供を父の実家と母の実家に預け約五年間して後妻を貰いやっと普通の家族生活が出来ていたのに定年間ちかに終戦で恩給もなく仕事もなく 役場に勤め始めたが公職追放になり、田畑や山はあるので祖父母に教えて貰いながら父母と私達俄か百姓で大変でした。父は新しい百姓になるとサトウキビを植えたり、山から硬い木を切り、何処から捜してきたのか、椎茸菌を、切って来た硬い木に打ち込んだり、山から木の葉を取ってきて腐葉土を作りたまねぎやキャベツを作って近所の人も驚いていました。私はお年頃で急に農作業をやるのが恥ずかしく嫌な顔すると、何が恥ずかしいか、どうどうと胸rを張って
いろと叱られたものです。
昭和二十一年四月長崎の女学校の三年に転校し父の実家からいよいよ汽車通学です。長崎から三個手前の長与駅から長崎駅までそこから学校まで電車通学の毎日が始まりました。卒業までの二年間は前に比べると平穏な日々でした。
