女もすなるスピといふものを男もしてみんとてするなり。by スピ貫之


(タイトルは元ネタの紀貫之のようなひねった設定はなくて、そのままの意味です)

 

スピ系女子が氾濫する以前の遥か昔々、カンブリア紀に山川夫妻が誕生し陸に上がろうとした頃の西暦2000年前後の記憶では、現在のスピリチュアル関連の書籍は本屋の棚で「ニューエイジ」や「精神世界」と分類されていたように思います。

好き好んでその分野の本を読んでいた私だったのですが、その棚の前に常駐していると世間の好奇の目にさらされているような被害妄想が湧いて、すぐ脇の「哲学・思想」の棚の前にさささっと避難的に移動したものです(今でもそれはあんまり変わらない)。

 

主なところでは「神との対話」とか「なまけ者のさとり方」とかシャーリー・マクレーンとかコントロール・ドラマでおなじみのジェームズ・レッドフィールドの「聖なる予言」とかブライアン・L・ワイスの「前世療法」などを読んだ記憶があります。

 

特に「神との対話」には昨今のスピ言説に残存している言い回しが多数あったように思います(「悟るのではなく思い出す」「全てに意味などない」等々)。

 

それらの書籍はそれなりに精神的な覚醒感をもたらしてくれて、続刊が出るたびに、「むむう…なるほどなるほど」と読み進めていました。

 

しかし取り分け「神との対話」について言えば、所々に噴出する著者のウォルシュさんの、「こんなエッジの効いたこと言ったら教会のおっかない人達に怒られちゃうよおおこわいよこわいよ~」的なびびりが強すぎて、キリスト教ってほんとめんどくせえな!それじゃ話がちっともすすまねーわ!と辟易した記憶もあります(その感覚は今でも同じ)。

果たして実際のところ、知り合いの女性のキリスト教徒の方にこの書を一冊送り付けたら「こういうのはサタンがどうのこうの」と言われてああやっぱりと思ったのでした。今考えると突然本を送りつけるとか私もどうかしてたような気がしますけども。

それはともかく、他にも同じ分野の多種多様な書を目にして、なるほどなるほどと読んだりしましたが、実際のところ、具体的な内容はそれほど憶えているわけではないのです

 

 

しかしそれにもかかわらず、その読書体験は知らず知らずのうちに無意識下においてミルフィーユのように降り積もって何かを形成しているのではないか、それはもしかしたら教養と呼べるものではないだろうか?

そしてそれは食べてみたら美味しいのじゃないか(…いやそれはない)と思う次第です。そんなもの食べたことないから、ちょっと食べてみたいけど。