「はじめに(Vita Spiritualis)」
今になって思えば、幼少の頃には変わったことが幾つかあった。
そういうのは幼少の頃とは限らないけれど、今思い出してみても頭ではよく分からない感じの出来事、魂の部分で理解するしかない事、それらをこのブログ内では、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス(Vita Sexualis)」にちなんで「ヰタ・スピリチュアリス(Vita Spiritualis)」と分類しようと思う。
そう、語感がいまいちな上に大風呂敷であります。しかしこのような話にこそ、人間の芯的なあれこれが滲み出ていると思うのです。
それでは一つ目のやつ、はじまりはじまり。。
--------------------
「発熱して絵本を描く」
うんうん唸っているうちに、なぜか猛烈に絵本が描きたくなった。
りんごジュースやらお粥とは別に、母親に色鉛筆と画用紙を頼み、二匹の狐の話を書きつけた。それはとても教訓的かつ説話的で、こんな感じだった。
「あるところに二匹の狐がいました」
「一匹は優しく、もう一匹は意地悪でした」
「優しい狐は誰にも親切でしたが、意地悪な狐は誰にも嫌な感じでした」
「やがて二匹はそれぞれ子供を生みました」
「すると、優しい狐の子供たちは立派なふさふさとした尻尾なのに、意地悪な狐の子供たちにはどれも短い尻尾しか生えていなかったのです」
これ以上の内容は思い出せない。悲喜こもごもの展開とか心温まる結末とかそういうのは一切なかったと思う。
同じような話とか宗教説話のような本は家にはなかったし、自分でも訳が分からずこんな話をただ書いた。そしてその後は普通に寝込み、風邪は治った。
確かなことは、子供心にも「きつねのしっぽはふさふさ・もふもふ」というイメージがあったことだろうか(調べてみると短い尻尾の狐もいるようだけど)。
さて、はたして短い尻尾の狐の子供たちはその後どのような生活を送ったのか?それについては正直あまり興味がわかないが、その一方で「長い尻尾の優美さ」は今でも優しげな親切心を連想させる。
自分が出したものを受け取る。幼心なりにそういうことは分かっていたらしい。
-- こんなの --
というか、あの猫の短かい尻尾のもっさり加減に墨を浸したら、書道で味のある字が書けそうな気がしてならない。もちろんやってみる気はないけど。
いやあの、別に無理に締めとして短い尻尾に脚光を当ててバランスを取りたい訳じゃなくてですね、まあその、いわゆるワンネスです。わんねすでごわす(…なぜ意識が南国に飛んだ?)。
とにかく、水平着地のぱてぱてもっさり尻尾に大いなる幸あれかし。そしてもちろん、優美なふさふさもふもふにも。
※次回の予定は「肉をボイコットする」です。