川底を流れる水は冷たい。それは自覚なしに冷たく流れている。そこに昨日からの歯の疼きを浸しても川からは何の返答もないだろう。誰かからの配慮ある労いもあるとは思えない。しかし歯茎の赤みは引いて元通りになる。無自覚なシステム。

 

 そう考えて川のそばを歩いていると、やや向うに三角の赤い屋根が見えた。それは空に向かって鋭角に伸び、木々の間からその切っ先を覗かせている。そこに焼いたばかりの冬餅が乗せられ、その白く柔らかな固まりがそこにしなだれかかる様子をほんの瞬間だけ想像してみる(醤油はどこにも存在しない)。そして私はまた川に意識を戻す。

 

 水の中では渦が巻いているのだろうか。それともただの曲線的な流れが素麺のように川の終わりまで続いているのか。川底に描かれた紋様(それはどこかの星の古い世界地図に似ているに違いない)を数式に変換してみたらどんなだろう。石につまづきそうになりながらそう考えると、ふと思い出すことがあった。
 
「さっきまでここにあったあれ知らない?」
 知らない。けれどそれについて尋ねられ、会話をするのは楽しい。そんなものだ。

 

「それなら戸棚の横じゃない?」
 もしそれが無いとしても雑貨店にすぐさま買いに行けばよいのだ。その足取りは軽い。北欧の木切れで組んだ心地の良い手押し車を一緒に引いて行きたいくらいに。

 

「あっそう。今日のごはん美味しかった?」
 美味しくない時に私は存在しない。そうなのだ。

 

「とても。よければ明日もお願いね」
 とても良い返事の仕方。今日も明日も。

 

「おーけい、まかせてね。明日は少し味噌も入れておくからね」

 

・・・

 

 そんな訳で、こうやって川のそばを歩きながら浸る気分のどこにも間違いはない(少しばかりの味噌が既に足されているけれども)。

 

 三角屋根はとうに過ぎ、林の入口までやって来た。家はもうすぐだ。

 冬餅がしなだれかかって来ても、丈夫な屋根があれば大丈夫。細かく刻んで、さっさと心地の良い手押し車に乗せて運んでしまえば問題ない。よしんば川の中で素麺が渦を巻いても、清らかな流れに味噌をちょっと足せば何ともない。幸せがやって来る。

 

 そんな川のそばを歩いた。