現代音楽をご存知でしょうか。

 

そうです、あのピーとかピャーとかゴーいう感じの音楽。

もっと詳しく描写すると、

 

ほひはひゅーん、ぴろっぴぴぴいいーっ、でどどどどぉー、ううううううん(10秒沈黙)ずずっううぴぴっ、うでゅーんででっどどおっ、ぐぁーほーん

…そうですあれです、あれ。
 

通りがかりの普通のおばちゃんに聞けば、

 

「あー、ああいうのって何がいいのかしら~?うるさいだけじゃなーい?私は美しき青きドナウみたいのがいいわね♪あとねえ最近マーラーにはまってるのよお~ふふふふーん、ふふふふーん♪らんらん(上機嫌で代官山駅改札に吸い込まれていく)」

とか言われそうなあれです。※完全に適当な妄想です。

アカデミックな音楽修練(以前の投稿を参照)を経て作曲に少しでも関わると、一般的に奇っ怪とされるこの種の音楽に対していくら無関係・無関心を装おうとも頭の中から完全に抹殺することは難しいのではないかと思います(少なくとも私はできませんでした)。

 


色々な音楽体験を経てのち、私は現代音楽を人間の意識レベルと対応させて

・日常
・・非日常
・・・その中のまた非日常


=(イコール)

・日常の中の音楽
・・ライブ・コンサートでの音楽
・・・現代音楽


という風に捉えてみることにしました。もう一つ料理を例に捉えるとすれば、

・家庭料理
・・料理人の作る料理
・・・前衛的な料理人が作る鉄や砂や木材などの素材を使った料理


という感じにも例えられるのでは、と思っています。

問題は鉄や砂は食材として存在価値を明確に拒否できそうなのに対して(土は食べられるものもあるらしいですが)、現代音楽の奇妙で奇っ怪な響きは、言葉の意味付け等によって、聴き方によってはこれもありだもんね~ふっふっふ、と言えてしまうことです(たとえそれを世界中の全員が否定しようとも)。

 


また不快な音を聞いてしまったとしても、飲み込んだ食物を嘔吐しなければならないような、生理的に本当に不愉快な肉体反応が発生しないのも、音楽が料理と異なる点です(割と性格的にはっきりした人が、怒って椅子を蹴り会場を憤然と立ち去ることはあるにしても)。

 

…と少々考えてみてからの私なりの小さな結論ですが、やはり私は音楽に対しては料理的視点を取ります。

鉄とか砂を組み合わせて素晴らしく美味しく調理出来たら、それは本当に素晴らしく特別なことだと思うのですけれど、そのような方法を私はこの星の上ではまだ考え付くことが出来ないでいます。

 

ある芸術的趣向を楽しむ時、人々は何らかの箱に一緒に入っているものと考えると(これは前述した3つの意識レベルの構造に関係している)、広く現代音楽と呼ばれ得るものは、「箱の中にある更なる小さな箱」に入り込んでしまうような、不可思議な二重構造を生じているように私には思われます。

 

 

言い方を替えれば「ある妄想の中の人物が取り憑かれた更なる妄想」とも言えるのではないか、と推察するのであります。ああややこしい。

 

 

個人的な感触としては、そのような入れ子状態を拗らせるともはや誰も察しがつかない所に行ってしまうのではないか?という危惧が募ります。

 

 

それゆえ臆病な私としましては、芸術としての複雑性は寒さを防ぐ二重窓のような見通しと実用性を兼ね備えた範囲に留めておきたいな、と思うわけです。おお寒い寒い。

 

 

聞いたあとに心が暖まるような音楽の瞬間が私は好きです。すべり芸のような寒々しさを音楽には求めません。どっとはらい。