安土城の完成と、林、佐久間、安藤の粛清が描かれました。
ついにきました。
今回の大河ドラマ版の最大の特徴とも言える「小一郎の妻は安藤守康の娘」説がついに輝きます。
しかも粛清は光秀が開催の段取りをした安土城完成を祝う宴の席で突如始まります。
信長が相撲大会をして、勝ったものには褒美をつかわす、といって林を指名します。
相撲に負ける林に
「追放じゃ」
とサラッと言う、小栗旬怖ぇぇぇ・・・。
同様に、佐久間も安藤守康も相撲に負けてしまい、追放となるのです。
原作の小説版ではまず、同盟関係の家康に妻と息子を殺す様指示を出した後にこの粛清が行われます。
大河ドラマ版では、家康について最近、描かれる事がありません。
「『信長様は、荒木の謀叛以来、お味方にも厳しくなられた』
そんな風評が広まり出した時に起ったのが、林佐渡守通勝、安藤伊賀守守就、佐久間右衛門尉信盛らの追放という大事件である。
林通勝は美濃生れながら、信長の父・信秀以来、織田家筆頭家老を務め、事件の寸前までその地位にあった人物である。軍事面での活躍は少ないが家政の面では重きをなし、織田家古参の保守派人脈の中心をなしていた。天正六年の新年茶会には特に招かれ上席に据えられたほどだから、本人も周囲も信長の信任を得ているものと信じていたことだろう。それが、もう一人の古参重臣・丹羽右近と共に遠国追放の処分を受けたのだから、家中の者はみな仰天した。
さらに、数日を経ずして、安藤守就が同罪となった。安藤は美濃・北方城主で、斎藤龍興に仕え、稲葉一鉄、氏家卜全と共に西美濃三人衆と呼ばれて重きをなした。この事件の直前に病死した羽柴軍の参謀・竹中半兵衛重治の舅に当る。織田信長が美濃を奪えたのは、西美濃三人衆が織田方に寝返ったからである。安藤守就はその後、姉川の合戦で勇戦、近江攻めや伊勢攻略にも参加し、信長から大垣城を与えられていた。それが突如、三人の息子共々に遠国流罪を宣せられたのである。
これに踵を接するようにして伝えられた佐久間信盛の追放は、一層衝撃的であった。この人物も信長の父・信秀以来の重臣で、桶狭間合戦の時は善照寺砦の守将をしている。元亀元年の六角攻めでは近江・長光寺城を落し、柴田勝家と共に功第一等と賞せられた。その後も各戦線に参加し、長篠の戦いのあと三河の刈谷、小川を加増され、三河、尾張の旗頭として多数の与力大名を指揮する軍団長として、石山本願寺攻めの総大将に任じられた。織田家累代の家臣の中では、柴田勝家、丹羽長秀と並ぶ最高の出世である。誰一人として、この男に粛清の危機が迫っているとは思わなかっただろう。
それが、本願寺との和睦が成るや、信長から十九カ条の折檻状を突きつけられ、その子・正勝共々追放になってしまった。」
大河ドラマ版では、安藤守康の息子がどうやら敵方と通じていたと言う罪だった模様です。
小説版でも同様に武田信玄へ通じていたと言及しています。
「安藤守就の罪状は、「武田信玄に通じ、美濃に敵兵を入れようと図った」旧悪であった。林、佐久間の罪とされた信行擁立よりは新しいが、それでも十年前のことだ。信長はここでも、「われ憤りを忍ぶこと十年、天下ようやく定まるに至り」と繰り返している。
要するに、この二十余年間、憤りを忍んで各人の罪業に目をつぶり、加増をしたり茶会に呼んだりしていたが、天下平定が進んで多少の反抗混乱があっても大丈夫になったから、この際気に喰わん連中はみな追放するのだ、というわけである。恐らく信長は、宗教勢力を鎮圧した余勢をかって、自らの信じる改革に懐疑的な右派保守勢力を一掃しようとしていたのであろう。
だが、織田家の諸将には、信長のような偉人の心を読み切れない。また、それを分らせるほどの表現力が信長には欠けている。この天才は、生来、凡人の気持を察する能力が乏しかったのだ。」
さらにはラストには
明智光秀を頼ってきた長宗我部軍に味方しないとの決定を光秀に伝えます。
小説版では長宗我部に敵対する阿波の三好軍や讃岐の十河軍が秀吉を頼ってくるという描写がありました。
ここでもすでに光秀vs秀吉の争いが始まっていた、としていますが、大河ドラマ版ではどうなのでしょう。
小説版の好きなエピソード
清洲城石垣整備
蜂須賀小六加入
信長小牧城、本拠地移動
東美濃鵜沼城攻略時の秀吉監禁
丹羽長秀を通じての信長への援軍要請
東美堂洞城攻略時の兵站輜重
墨俣築城
竹中半兵衛を足がかりとした美濃三人衆の調略
信長上洛
信長岐阜帰還、秀吉京都奉行職へ
毛利援軍要請に秀長が先陣を務める
足利義昭挙動不審
朝倉攻め朝倉景恒護送
浅井長政叛乱、金ケ崎城籠城
浅井攻め 姉川の合戦
比叡山籠城
横山城主 浅井、朝倉と和議
姉川封鎖
丹羽長秀、磯野員昌佐和山城攻略
比叡山焼き討ち
武田信玄西進
宮部城籠城成功
足利義昭今堅田蜂起
足利義昭槇島城蜂起
秀吉、義昭を毛利方まで護送
阿閉貞征調略
越前征服
小谷城攻略
秀長北近江十二万石
今浜城築城
小寺官兵衛、加入
安土城築城普請
小姓、7本槍加入
本願寺ふたたび不穏
石松丸秀勝死去
秀長播磨入り
上杉謙信加賀能登侵攻
柴田勝家と仲違い、無断撤退
信長閉門蟄居命令
松永久秀謀叛、信貴山城攻略
岩洲、竹田城攻略
上月城へ尼子、山中鹿之介入城
秀吉、戦勝報告で安土へ帰還
別所賀相、三木城立てこもり
毛利軍5万東進
荒木、明智、滝川軍援軍到着
上月城撤退尼子滅亡
播磨攻略、三木城攻め
魚屋弥九郎加入宇喜田と交渉
荒木村重挙動不審
丹生山城陥落、海蔵寺城陥落
丹波平定戦で総大将を務める
竹中半兵衛死去
宇喜田直家帰属
荒木村重、尼崎陥落
三木城、別所陥落
本願寺と和睦
秀吉、近江へ帰還、秀長播磨内政
一向一揆の本拠・英賀本徳寺を陥落
但馬平定戦、4千で成功(秀長初の単独軍事行動)
秀長、出石の城十二万石(黒田官兵衛は一万石)
生野銀山掌握
鳥取城兵糧攻め
淡路平定
四国での長宗我部(光秀より)と三好、十河(秀吉より)の対立で信長が長宗我部討伐を命令
信長、林、佐久間、安藤粛清
滝川一益、武田家制圧
秀勝初陣
小一郎の養女、宇喜田家婚姻
高松城攻め
毛利と和議、織田本体援軍要請同時許可
本能寺の変
天王山
中山、高山隊孤立を救援東斜面へ展開
中山、高山撤退、東斜面で受け止め
池田恒興、加藤光泰到着
