以下 http://mage8.com/magetan/roushi03.html より引用
原文
希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。
孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。
故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。
同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。
同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。
書き下し文
希言(きげん)は自然なり。
故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、
驟雨(しゅうう)は日を終えず。
孰(た)れかこれを為す者ぞ、天地なり。
天地すら尚(な)お久しきこと能わず、
而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。
故に道に従事する者は、道に同じくし、
徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。
道に同じくする者は、道も亦(ま)たこれを得るを楽しみ、
徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、
失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。
信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。
現代語訳
聞き取れない程のかすかなささやきこそ、
言葉の自然な在り方である。
吹き荒れる風は半日も続かないし、
土砂降りの雨も一日中は続かない。
そうしているのは自然そのものである。
自然すら長く続けられない様な言葉の発し方を、
人間が長く続けられる筈が無い。
だから「道」に沿った生き方をする者は「道」と一つになろうとし、
徳に沿った生き方をする者は徳と一つになろうとし、
仁や礼を求めて徳を失った者は、それらと一つになろうとする。
「道」を求める者を「道」の方でも求め、
徳を求める者を徳の方でも求め、
仁や礼を求める者もそれらから求められる。
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(12/3追記)
あれ、この現代語訳がまるで腑に落ちない。
老子の言葉とは、何通りにも解釈できるのだろう。
訳者泣かせの恐ろしい文章だ。
違和感を感じる箇所を以下に記す。
稀にふと自然に出る言葉には本当の思いがこめられている。
天地自然すら同じ状態を長く続けられないのに、
人が続けられるはずがないではないか。
(堅苦しい規則で人を拘束し思い通りにしようとしても無駄なのだ!
自然こそ理想の姿だ!)
道(真理)を尊重する者は自然に真理と合一し、
道徳を尊重する者は自然と道徳と合一し、
不道徳を好む人は、不道徳な愚か者そのものである。
道(真理・良心)を尊ぶ者は良心からの行いを楽しみ、
道徳を尊ぶ者は道徳的な行いを楽しむ。
不道徳な人間も不道徳な行いを楽しく感じるのだ。
ふう~、まったく困ったものだ。
こちらが良いと信じなければ、あちらからも信じられない。
人は信じたこととのみ合一する。
あなたは道(真理・良心)と不道徳、どちらを信じ一体となるだろうか?