福島の青い空

 

 

会津の旅

 

 

 

 

 

 

11月5日会津に向かった。目的地は会津桧原というところ。

IR只見線沿線にある。無人駅、ここは駅ができたときから無人駅。今はヘンテコなキノコ型の小さな駅舎がある。

 

 

折から列車が到着

 

聞くとお墓は3か所あるという。一応上中下と分ける。下のお墓というところに行ってみた。案の定あった。

 

山内豊前守の墓である。山内豊前守とは山内俊範のことである。

 

山内俊範は山内家第12代当主舜通の弟で桧原丸山城主である。

 

裏には故桧原領主豊前守は首藤刑部俊通之末葉なり、寛文九年己酉十月十五日建主は曾孫横田三友斎俊益と記されている。1669年頃の話です。

 

こういうものが三島町からなんの指定も受けず放置されたままになっている。説明板も何もない。分かる人しかわからない。検索しても何も出てこない。2代目の左京之亮俊知についてもネットでは出てこない。

 

ネットにはなくとも墓はある。どういうことなんだろう。

 

 

 

 

 

二代目山内左京亮俊知の墓 桧原春日神社境内

 

 

寛文九年己酉十月十五日建主は曾孫横田三友斎俊益と記されている。

 

横田俊益(とします)ってだんじゃって話になりますが、この山内俊範の4代目の子孫に当たる人で、山内と横田は素性は同じで、会津横田と会津山内は同族です。

 

あいづ由来の横田姓の人のほとんどは本姓が山ノ内氏(首藤山内)です。横田の名字が好きで適当に名乗ってんです。

本来は山内氏です。

 

横田俊益は会津藩随一の儒学者で保科正之の招へいを受け、正之に学問を講じた人物。(200石のち300石)。

 

実際、集落のお父さんに会ったので、豊前守俊範のことを聞いたら詳しく知っておられた。話に聞いていた豊前守俊範の家老と言われた家で、その子孫の片山祐一氏であった。

 

私は墓参りが終わったんで帰ろうとしていたら、家の周りで作業中の片山さんに会ったわけである。わざわざ尋ねていったわけではない。人を尋ねるのは好きではない。何かの縁である。

 

片山さんの名前は栗城正義氏の著「忠誠日本一」で知っていた。そのことで楽しく話し合ったが、「母ちゃん!コーヒーを」などといっておられたが、予定もあったのですぐにお別れした。

 

ゆっくり話をしてこの旧跡をどうやって保存するのか聞きたかった。春日神社の山内左京亮俊知の碑もこの豊前守俊範の碑も

顕彰する人もいなくなってしまう。

 

片山家には片山家の系図とすずりが伝わっている。いずれも横田俊益の嫡男の俊晴より送られたものである。

 

 

只見川 桧原第一鉄橋 只見川まで降りてみたが、こんなものでわざわざ降りるまでもありませんでした。あぶなくて川に落ちそうになりました。

 

 

 

 

 

金山中学校の線量計です。

 

 

 

 

 

 

 

山内氏勝は会津山内氏の最後の殿様で伊達氏に追われ、越後に移った。現三条市(旧下田村)。一説では魚沼郡上田庄浦佐郷大浦邑に行ったとある。(会津四家合全)

 

私は魚沼郡浦佐説のほうが納得できる。ここは小出町で山内姓が多く小説「徳川家康」の著者山岡荘八氏はその末裔。(本姓は山内氏)

 

新編会津風土記では山内氏勝は「慶長の末年白河にて病死せり」と書かれていることから、この白河は大白川であることは明らかである。

 

大白川は只見から六十里峠を越え小出に至る沿線にある。

このことから下田村説よりも大白川説の方が信ぴょう性があると思っている。

 

 

 

 

 

あたりの風景を見る余裕もなくひたすら急ぐ。

何か所もスノーシェッドを越え只見川の橋を幾度もわたり、

国道252号線をひたすら西に進む。

 

でんでんでんでん車は進む。

原発後遺症でいつ死ぬかわからない。

いつまでも生きられると思ってるやつはかってに思っていろ。

でんでんでんでん車はすすむ。

 

オレ75歳、ひとは変わり者という。参拝を終え、只見川を振り返ったときの光景。緑色は只見川。

 

 

 

振り返れば山はほんとに真っ赤だった。

 

 

興味を持つ人は全国で3人くらいだろうし、こんな記事はだれも読まないだろう。

 

だれにも読んでもらわなくてもかまわない。

しかし私が興味をもったように、だれかがいつか興味を持つはずである。いつか読む人があったら、伝えてほしい。

 

鎌倉期に勃興した鎌倉御家人、会津山内氏は会津の地にあって400年も支配した。その後越後に去ったが、代々の家臣団は南会津、大沼郡に残った。土着したのだ。その後幕領になったり、会津藩の預かり領になったりして幕末期を迎えた。

 

戊辰戦争時、山内氏の旧家臣団、川原田氏の旧家臣団は会津藩士とともに全会津および越後の南蒲原郡、魚沼郡などに展開し、迫る西軍に対して抵抗した。

 

そこは会津領だったからです。彼らは他人の領地まで行って戦争したわけではありません。すべて会津藩の領地だったからです。

 

 

 

山内家臣団は2派があります。ひとつは山内旧家臣団、ひとつは沼沢家旧臣団です。河原田治部隊も同じです。

 

会津藩の山内大学隊と沼沢小八郎隊も川原田治部隊も隊士は本来の武士団ではありません。

 

大沼郡や南会津郡のありていに言えば百姓たちです。農民なんです。

 

それが幕末期には300年前の殿様のもとに結集したわけです。

山内大学も沼沢八郎も川原田治部もかっては鎌倉御家人の末裔でその部下の隊士は昔の家臣団です。

 

江戸期300年間、かっての殿様に忠誠を誓っていたんです。

それは「忠誠連判状」と言って、現物が残っています。金山町、只見町の町史を見るとよくわかります。

 

実際にそういうことがあったんです。広大な南会津一帯はそういうことでよくまとまっていたんです。

 

保科正之はそういうことに眼をつけて、家臣団の統領をそれぞれ召し抱え、南会津、大沼郡、新潟県魚沼郡及び北蒲原郡を実効支配しました。つまりよくまとまって支配されていたんです。

頭を押さえつけていたからです。

 

通常は農民ですが武力を持ち、いわば郷士のような存在でしたが身分は農民です。領内での名字帯刀は許されていました。

 

さらに八十里越峠、および六十里越峠の警備さらに麓の番所口の警備も任されていました。只見口、叶津口番所です。

 

旧家臣団は交代で警備にあたっていたわけです。山内家臣団は1000人ぐらいです。ふだんは百姓をしながら武技の訓練を怠っていなかったわけです。

 

戊辰戦争時に会津領内に展開された旧山内家系の隊士および川原田家の隊士つまり農民は3000人ぐらいだろうといわれています。

 

ウソでない証拠に戊辰戦争末期に会津藩士と共に戦っていた沼沢隊士およそ100人は正式に会津藩士に採用されました。記録に残っています。

 

100人もいっぺんに藩士にされた話など信じられませんがほんとの話です。

 

こういうことから、会津山内氏って何だろうという疑問が生まれました。それででんでんでんが始まったわけです。

 

本日山内氏勝の墓に参拝し、さらに山内氏勝9代目の子孫で会津藩執政、斗南藩小参事山内大学知通終焉の地を確認できました。

 

本日の会津の旅ですべて確認して、大いに納得したわけです。

 

これで会津山内氏のでんでん物語を終わります。

 

会津山内氏

https://blogs.yahoo.co.jp/a87427/29654079.html