福島の青い空

 

アフターコロナ(8)

 

ステイホームで考えたこと(1)

 

 

NHKの子供科学電話相談はよく聞いている。コロナに入ってからどうもへんてこな話が続いている。

 

 

「電話受けスタッフはお休みです。
当面は電話の質問受け付けはありません。メールだけで質問を受け付け、放送では電話でやりとりします。」

 

要するに子供がじかに電話で質問をぶっつけるということがなくなったんである。

質問はあらかじめ選択されている。だからハプニングもない。

 

「どうしてパンツはかないといけないのですか?」

 

「人に見せたくないからです」

 

だから奇想天外の質問も答えもありません。

 

私はこういう子供の素朴な疑問に答えるのが科学だと思っている。だから上手に納得できる説明をしてくれる先生が一流だと思っています。

 

教科書だってそうです。あれは超一流の学者が執筆してんです。

学者は研究や学生の指導が主な仕事ですが、大事な仕事に、教科書や出版物を通じて学問の普及に努める責任もあります。

 

学問は自分の研究だけでなく、人に伝えることも大事なんです。それが「学問する」ということなんです。

 

学問は絶えることなく次から次と、入れ替わり立ち代わり、失敗を重ねて絶えず進歩をめざしてきて今日があります。

 

それがコロナだから電話は受け付けない。あらかじめメールでよこせとなど言っている。

 

おっかしいな、電話するとコロナがうつるのかな、と考えたら思い出した。

 

ファクシミリが出始めたころ、いっしょうけんめに紙を送っている人がいて、なんぼ送ってやっても戻ってくるっていうのである。

 

紙が送られていくと思ってたんだ。冗談ではありませんよ。ほんとの話です。

 

ウイルスが電話を通じて感染すると思っていることと同じじゃん。

 

さて大阪の適塾について勉強している。

 

緒方洪庵

 

緒方洪庵は大阪適塾の創始者です。緒方洪庵は岡山県の岡山市にある足守町にあった足守藩の出身です。足守藩=あもりはん

 

足守藩木下家は太閤秀吉の奥さんの寧々さんの兄にあたる木下家定が家祖である。2万5千石です。

 

そのうち2万2千石はみちのくは福島市のわが町にあったんです。足守町には3千石しかなくて大部分は福島市の瀬上町にあったんです。瀬上町とは私の住んでいる街です。

 

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足守藩はここに代官所を設けて支配しました。瀬上代官所と称しました。せのうえ.と呼びます。セガミではありません。

 

昔はたいへんでしたね。岡山県から福島県の北外れの土地を支配させたなどと嫌がらせとしか思えませんね。千キロもあるんですよ。

 

吉田松陰は健脚で1日40キロくらい歩きますが、それでもぶっ通しで25日もかかります。そんなに領地が離れている大名などあまりありませんよ。


高台院(秀吉の奥さん)は徳川政権成立時には徳川家に大分尽くしたんですよ。加藤清正、福島正則、浅野長政、黒田長政、細川忠興などのかっての秀吉が育てた武将がみな徳川についたのは高台院のおかげなんです。

 

家康が死に代が変わってゆくと、幕閣でもこのことを顧みられなくなって、取り潰されたりしてひどい目にあいました。寧々の実家である木下家が千キロも離れた領地をあてがわれたのはそういうことです。

 

戊辰の役直前に、仙台藩は福島方面軍司令官として「瀬上主膳」という人を任命しました。

 

もちろん先祖が瀬上だからです。せがみでなくせのうえしゅぜんといいます。

 

長州の人で奥羽鎮撫総督府下参謀(新政府軍の実質的な現地司令官)の世良修蔵を寄ってたかって惨殺してしまいます。実際はみなでとらえて、阿武隈河畔で斬首したんです。

 

瀬上主膳は世良修蔵の言動が気に入らず、藩庁に世良を殺させてくれ、殺させてくれと嘆願しました。やっと許可が出たわけです。

 

これで仙台藩は後戻りができず、奥羽越列藩同盟ができるわけです。やがて戊辰戦争がはじまります。

 

瀬上主膳の領地だった石巻市鹿又駅、

 

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つまり戊辰戦争はこの世良修蔵を暗殺したことをきっかけに始まったわけです。

 

世良がなぜ殺されなければならなかったのか、どういういきさつだったのかは別稿に譲ります。

 

そういうわけで瀬上主膳は歴史に残りました。初めて瀬上の名が出た始まりだと述べたのはこういうことです。

 

要するに伊達氏はもともとこの地方の地頭に任命された鎌倉の御家人でした。伊達市、信夫(福島市)が鎌倉期当初の支配地でした。

 

だから伊達氏の主な家臣団はほとんどのこの地方の出身です。瀬上氏もその一人です。

 

さて。適塾のことです。

 

ネットより

Wikipedeiaより

主な門下生[編集] ◎は塾頭

 

幕臣もいれば他藩の藩士もいます。優秀な人はだれでも塾頭です。塾生は日本全国に及びました。学問には右も左もなく、また尊王攘夷も佐幕もなかったわけです。門下生は約3000人と言われています。

 

緒方洪庵は晩年の一年幕府の懇願をことわりきれず、将軍の奥御医師として江戸に行きますが、たった1年で死んでしまいます。

 

緒方洪庵を考えています。多くの弟子を育て名利を求めず、患者のために懸命に尽くし、最後は江戸で客死します。ひたすら弟子を育て、医学の発展に寄与しましたので何も残っていません。

 

しかしのその学灯は消えず、今も大阪大学として引き継がれています。

 

なるほど当瀬上町と緒方洪庵のつながりは、家の前を通り過ぎた人ぐらいの関係かもしれない。

備中岡山の足守藩にいつか行ってみたいと思っているのはなぜだろう。

 

 

緒方洪庵の生涯をいろいろ考えています。