福島の青い空(585)
うずくまる土偶(どぐう)福島市
福島市教育委員会所蔵の土偶の中に福島市東湯野地区で発掘され
た、国重文指定の「うずくまる土偶」がある。
今日はその話。つまんないと思う人は見ないでください。
ほんとつまんないんです。
これはレプリカです。本物は展示のため貸し出し中で来年1月まで帰ってきません。
これは本物の写真です。↓
こういうのはネットの写真を拝借というわけにはいかないので苦労
しますう~。
うろ覚えだった福島市歴史資料展示室を尋ねて行ったら、すでに薬
局に代わっていて、行き先を尋ねたら、分からないと言われまし
た。しょうがないので市役所に行ったら、受け付けは「ふれあい歴
史館」といって「松川町にある」という。松川町はここから20キ
ロも南方で、これからでは間に合わない。南無三万事休したと思っ
た。して図面をよく見ると松山町とあるではないか。
「これ松山町ですよね?」と行ったら、そうです、そうです。松山
町でした。ははあ、このしと福島じゃねえな。妙なのが福島市役所
の総合受け付けにいます。
さて松山町の「ふれあい歴史館」に出かけてみたら、ここには展示
してなくて、宮畑縄文歴史館(じょーもぴあ宮畑)にあるという。
それでさっそく行ってきた。母を尋ねて3千里だぁ~。
まあレプリカだが、話にはなる。
「じょーもぴあ宮畑」本館
それで今度はこの「うずくまる土偶」が出土した上岡遺跡である。
これは福島市東湯野というところにある。飯坂温泉に近いところ
だ。
半沢先生のフィールドノートを使わせてもらって古代東山道の想定
ルート(私案)を緑の線で入れてみた。当時の道路はここしかない
ので、私はここだと思っている。下飯坂の金源寺の前の道路であ
る。ご不満の方は無視してください。
想定した延長線上に「上岡遺跡」があるんです。
古代の東山道と上岡遺跡は何の関係もありません。
この東山道は前9年の役や後3年の役の時、源の義家の軍勢が通っ
たところです。
この近くには『片目清水』という小さな清水があります。いわれが
書いてあり、鎌倉権五郎景政が眼を射られて、この清水で手当てし
たということが伝えられています。
東山道からほど近いところなのでこういう伝説が生まれたのではな
いでしょうか。
鎌倉権五郎景政=相模の国、鎌倉の武士。豪勇を誇り数々の伝説を残した。鎌倉御家人たちに崇拝されて、権五郎景政をまつる神社は数々ある。梶原氏の祖と言われる。
これはショックな名称ですね。
「雌性座像土偶」が正式名称だそうです。昭和27年(1952
年)を客観的に論じると、こういう時代なんですね。私は小学校3
年生でしたね。女性の土偶を雌性だなどとつける感覚ってどうなん
だろう。一口に言うとやっぱり戦争に行ってきた人たちの感覚なん
ですね。
この土偶は以前から世界のあちこちに展示されて、インタナショナ
ルなんです。まさか「雌性なんとか」などと言って展示されている
んじゃないでしょうね。
これでは女性はケモノと同じだと言わんばかりです。担当者は女性
蔑視、女性差別主義者だったんですね。絶対許せませんね。
よく見たら変な道路の予定ルートになっている。こりゃ大変だ。
東湯野村の取り組み↑
東湯野村は当時、福島市ではありませんでした。したがって教育委
員会も小規模で予算もなく、大発見は本当によくやってくれまし
た、というところです。おかげでわれわれは、こういうとんでもな
い古代遺跡を眼にすることができたわけです。この土偶は現在世界
を旅しています。
小原ご兄弟は当初、桃畑にするため暗渠を切っていたらしい。作業
中にごろごろ遺跡が出てきたので、役場に届けたんです。中断し
て、発掘作業に入り、この「うずくまる土偶」がおよそ3500年
ぶりで世に出ました。
国重要文化財の発見者としてお二人の名前が歴史に残りました。