福島の青い空(546)


白河紀行(1)


白河の関跡


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下郷町の中山風穴植物群を見たあと白河市に行ってきた。

白河は若い時、何度も来たことがある。しかし、小峰城も行ったこ

とがないし、白河の関跡もまだ行ってない。

芭蕉のころの関跡はすでに現在地に確定していたようで、「おくの

細道」ではそうなっている。つまり現在の旗宿のことである。

今は県道76号線となっているが、そのかみは、東山道とよばれ旅

人でにぎわった。道路は普通、自然の弱いところ弱いところと縫っ

てあるくから見ればすぐにわかる。川と同じである。

ゆるやかな谷あいの田ん圃道がいつまでも続き、これは昔の道だと

すぐにわかった。分からない人がおかしい。標識は栃木県の大田原

まで続くと表示している。まさに東山道である。

旧陸羽街道と呼ばれた道がある。現在の294号線である。現在の

4号線よりもずっと東側である。芭蕉のころ、つまり白河の関あと

は、この東側のもっと先にある。つまり現在の4号線よりも15k

mほど東に寄っているのである。

すでに、発掘など必要な科学的な調査は完了していて、「白河の関

跡」が建てられている。さらに「白河関の森公園」なるものができ

ている。金儲けの施設である。はしっこいのはいつの世でも同じ

だ。けっこう観光客もいた。

白河の関跡は現在は白河神社である。関跡が神社になってんであ

る。経緯はわからない。神社は古い格式があると表示があった。

延喜式に出ているというのである。

白河の関が古いのか延喜式の方がもっと古いのか、よくわからな

い。しかし白河の関は平安中期のころまでにはなくなっていたと思

われる。つまり頼朝の奥州攻めのころには白河の関はすでになかっ

た。

ここで頼朝から歌を読めと言われた梶原景季はうたう。

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はなから梶原源太景季の歌など持ちだして、古典の嫌いな人は眉を

ひそめるだろう。こういう看板があるのだから仕方ない。

源太景季は梶原景時の長男である。景季は歌詠みで知られ、武勇で

も有名である。

梶原景時は頼朝の股肱の臣で、謀臣であった。権謀術数にたけ、さ

まざまな悪辣なことをして憎まれて、頼朝の死後一族もろとも誅殺

された。景季はその中に入っていて梶原一族としてその生涯を終え

た。いくらなんでも、それはあんまりで、頼朝のゴマスリが親がめ

が死んだら一族皆殺しにあったんである。

それほど人の憎しみを買うってどれほどなんだろうと思う。

義経のことばかりでなく、御家人たちに対して憎まれるようなこと

ばっかししていたのだろうと察せられるが、当時の人たちのことは

よく理解ができない。さらに伏線には北条義時の戦略が感じられる

がこのころはまだよく表れていない。

景時は義経軍の軍監で今の参謀長のようなものである。作戦の責任

者で、義経は軍司令官である。

まあ普通は参謀長に作戦は任せ、あとは良きに計らえなどと言って

いるものだが、義経はそうしなかった。徹底的に景時の作戦への口

出しを嫌ったのである。顔をつぶされた鎌倉武士、梶原景時はある

ことないことを頼朝に報告した。

義経は何世紀に一人くらいしかいなかった軍事的大天才である。

ことごとに景時の手に負えるような相手ではなかった。

さらに義経の作戦はことごとに成功するので、部下の将兵は義経を

よく信頼した。

景時の讒訴がなく、勝報ばかりが届いていたなら鎌倉幕府、頼朝と

義経の中はずっと違うものになっていたはずである。

それが歴史的必然というもので、大変革期にはひとり天才が現れ

て、使命が終わると消えてゆくという運命がある。

坂本竜馬もそうである。用が済めば歴史から消されるのである。吉

田松陰もそのとおり。彼らは歴史的使命を無事果たして死んでいっ

た。革命の果実を食わなかったので、人々の記憶に鮮明に残り、永

遠の命を歴史とともに流れている。

平家追討が終わっても、義経には凱旋が許されなかった。まあその

時から頼朝の敵になってしまったのである。

このときの義経幕下の御家人たちの行動が不審である。義経のもと

には数々の関東の御家人たちが、義経の戦果と作戦のことをつぶさ

に知っていながら、だれも義経をかばわなかったことである。

義経が幕府の敵とされてゆくのをむざむざ黙って見過ごし、頼朝の

死後、梶原を誅滅するのである。このへんが今でもわからない。


”秋風に草木の露を払わせて
    君が越ゆれば関守もなし”   吾妻鏡


ごますりの手本のような歌であるが、今すぐ読めと言われて即興で

これだけの歌をスラスラ読める人は昔でも少なかったと思う。

そういうわけで頼朝の奥州攻めの時にはすでに白河の関は伝承に

なっていたんである。

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白河神社 白河の関跡は白河神社になっている。
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白河神社ご由緒

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曽良の句

卯の花をかざしに関の晴着かな  


芭蕉は白河の関では句はつくらず、曽良の句をあげている。わざわ

ざ奥の細道に採用してるのだから、芭蕉自身も気にいったのだろ

う。

白河の関は古歌に有名で、今は存在していないが数々の秀歌があ

る。そのため、歌の道に通じる人はここで服装を改め、敬意を持っ

て通ったという。

私、曽良は旅先で何もないので、折りとった卯の花をかざして、関

晴れ着としましょう。

芭蕉はこの時何か考えていたのだろうと思う。須賀川に着き相楽等

窮から、白河の関では何か作られましたかと問われ、でた俳句が有

名な、

風流の初めやおくの田植うた。

である。

白河の関を越え、せっかくみちのくに脚を入れたのだから、道々な

にか念になる一句を作ろうと考えてたんである。

それがとんでもない句になって表れた。

道々聞いてきた田植唄が耳から離れない。

みちのくでは田植え唄が風流だったのか。芭蕉はみちのくで初めて

本当の風流というものを知ったんである。

白河の関を越え、次第に流れてくるみちのくの田植え唄。ああ、い

よいよみちのくに入ったのだなあ~。

これこそ、わび・さびの極致ではないのか。

芭蕉はここで初めてあたらしい美を発見したのである。

それゆえこの句は芭蕉研究上欠かせない、芭蕉の代表的な名句に

なったのである。