『フイラデルフイア物語』コメデイは上質でなくっちゃ・キャサリン・ヘップバーン | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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≪ フィラデルフィア物語≫   


   こんばんは。いつもご訪問いただきまして
       ありがとうございます。

 


今夜はマンキウッツ作品のラストですが今夜は監督ではなく、
 

プロデユースなんです。

 

監督   ジョージ・キューカー
製作   ジョセフ・L・マンキウィッツ
原作   フィリップ・バリー


 キャスト
 キャサリン・ヘプバーン(トレイシー)
 ケイリー・グラント(デクスター)
 ジェームズ・スチュワート(コナー)
 ジョン・ハワード(ジョージ)
 ルース・ハッセイ(インブリ)

 キャサリン・ヘップバーンの魅力が全開の作品

 

 

いろんな拘束から開放されたときに、女性は生き生きと輝き、
 

その人の素の魅力が人を魅了するものだ・

 

以前、ジョージ・キュウーカー監督で
 

キャサリン・ヘプバーンとケーリー・グラントのトリオで撮られた
 

≪素晴らしき日曜日≫と言う作品を取り上げましたが、
 

今夜はそのトリオにプラスジェームス・スチュワートを加え、
 

プロデユースがジョセフ・L/マンキウイッツという
 

豪華なメンバーで撮られたおしゃれなお洒落な作品
 

≪フイラデルフイア物語≫を取り上げます。

 

 

後年この作品のミュージカル版で
 

グレース・ケリー、ビング・クロスビー、
 

フランク・シナトラの共演、≪上流社会≫と言う題でリメイクされました。
 

評判は悪くなかったようですが、
 

大人の映画の本当の魅力、また観客の見る感性を問われる作品として
 

やはりオリジナルの≪フイラデルフイア物語≫はひとつの形を作ったように思いま
 

す。


離婚した上流社会の夫婦がいろんなアクシデントを経て再婚するハッピーエンドと
 

いうお話で、見方によれば何てことないかもしれない。
 

が、が、ですが 
 

昨今の日本の若い俳優さんたちの映画を決してこき下ろす気は毛頭ございませんが
 

ハリウッドが作った真の大人の映画とはこういうものだ   ってことに気づくと
 

思うのですが・・・・
 

そして上流社会の人たちの 粋 というもの
 

ゆとりというもの 生れ育ってから身についた何気ない仕草のハイカラさ
 

などなど、そして上流人の会話の妙と言うものがたっぷりと味わえる作品が
 

この≪フイラデルフイア物語≫なんんです。
 

キャサリンがブロードウエイとハリウッドの両方で成功に導いた・・・
 

演技においても作品の紹介にしても語りにしても もっともっと
 

大人のこだわりや
 

情熱を持って作品を作って欲しいと思わせしめるモノです。
 

 ストーリー
 

 フイラデルフイアに住む大金持ちの娘トレーシー(ヘップバーン)は、
 

同じく上流社会出身のデクスター(ケーリー・グラント)と二年間の夫婦であった
 

が、若さとわがままと未熟さで二人の破局はあっという間にやってきた。


二年後、ニューヨークでトレーシーの再婚話をキャッチしたデクスターは

 

スパイという名のゴシップ雑誌の記者で作家を目指すコナー(ジェームス・スチュワート)を
 

トレーシーの邸へ向かわせた。コナーは恋人のカメラマンの
 

インブリ(ルース・ハッセイ)を同行させた・


トレーシーの再婚を阻止するためだ・

 

 

相手は貧困から身を起こして出世したジョージ・キットリッジ・
 

コナーは小説家であるが、生活のために
 

いやいやスパイの記者をしている男で、
 

フィラデルフィア名門の結婚式のことなどすっぱ抜いて記事には
 

したくなかったが。


デクスターにまだ腹を立てているトレイシーは、
 

彼の余計なお節介に腹を立てたが、
 

断われば 父とあるダンサーの関係をコナーが記事にしてしまうというので、

 

彼らを表向きはお客として招き入れることにした。
 

父が母親と別居しているのも、トレイシーがふしだらな父を同じ屋根の下に住まわ
 

せたくないほど潔癖主義者、完全主義者なので、母も
 

無理矢理に父を追い出した経緯があった。

 

花婿になるベキトリッジは世にいう成り上がりものでお金はあるが
 

上流人ではないため、トレーシーの名門階級というものが欲しいだけで
 

トレーシーをちっとも理解していなかった。

 

お嬢さん育ちのトレーシーはそんなベキトリッジの計算など見抜けるはずもなく
 

彼をりっぱな人物だと信じていた。

 

そんなトレーシーが少し目を覚ましたのはデクスターとコナーのあけっぴろげで
 

おっとりとしたデクスターのとコナーの性格の愛らしさだった。

 

そして結婚式の前日。
 

パーティーで、トレイシーとコナーはシャムパンを暴飲して
 

明け方まで恋を語り、おやおや 二度もキッスしてしまったではないか。
 

ふらふらとプールへ泳ぎに行き、
 

ひっくり返ってしまったトレイシーを抱いてコナーが歩いてきたところに、
 

デクスターとキトリッジに鉢合わせしてしまった。

 

デクスターには何がどう起きたのかピンと来たが
 

世界観の違うキトリッジはコナーの話を信じることは出来ずに
 

怒って婚約解消、明日の結婚式は取りやめとなった。

 

それまでの完璧主義者のトレーシーは、人間には欠点もあり、不完全な生き物なん
 

だと言うことを悟ったのでした。

 

かくしてデクスターがトレーシーを
 

どれだけ愛しているか知れないと言うことを知った。
 

ふたりはめでたく再婚いたしました。

 

と言う単純なありきたりのコメデイーなんですが。

 

 

この作品の面白さを解析していきますと・・・

 

上質なコメディとはどういうものか?
 

上品さの中に混ぜ混ぜするハイレベルな笑いに仕立てるすごさ。
 

にんまり、くすくす笑う至福感・

 

トレーシーの優雅さにうっとり。
 

ケーリー・グラント、キャサリン・ヘプバーン、ジェームズ・スチュワート。
 

まず、このお三方の並びの贅沢な喜び。

 

お子様ランチのような低質な感性の映画が氾濫する中で

 

上流社会が生み出す真の笑いの心地よさ。
 

ワインかシャンパンを片手にゆったりにたにたと鑑賞したい作品とは

 

こういった作品のことだと思います。

 

 

ドタバタもないし、これと言って盛り上がりのあるストーリーでもない
 

がじわりじわりと五感に染み込んでいく快感がある。

 

何度も見たくなる作品だ。コメデイも芸術に成り得る。
 

鑑賞者にも知性が求められるのだ。

 

それにしても
 

この作品に限らず、
 

昔の映画には、どうしてここまで
 

大人を純粋に楽しませる力に満ちていたのだろうか。

 

コナー(スチュワート)とカメラマンのインブリ(ルース)のカップルが
 

この作品においてバランスを旨くとっている。

 

登場人物の誰よりもこの二人は
 

我々の視点に近い存在で、ハイ・ソサエティの物語を身近に感じさせてくれる・

 

インブリという女性は最も大人で、
 

男性の本質を良く知っている。

 

そして、いい男もまた知っている。
 

仕事において、美人の先輩を持ったことがあるかによって、
 

男も魅力ある男性になれるってことを・

 

男性にとって理想の女性とはこういう女性のことかもしれない・
 

「これぞ上流社会という立ち振る舞いをお見せするわ」と
 

コナーとインブリを前にして、
 

いかにも上流階級の人ですといった芝居をする姉妹。
 

(このまたおしゃまな妹が上手いんですね。)

 

そして、こういった作品において輝くジミー・スチュワートの
 

ボソーっとした魅力。
 

感じたことを正直に表情に出してしまう
 

少年のような魅力的な男優であり役柄もそう。

 

ジェームズ・スチュワートの魅力は、いくらドジっても
 

私たちをしらけさせない愛らしさがある。

 

そして、この作品でもその魅力満開。
 

偉大なコメディアンって
 

ワンテンポずれたところで反応し、
 

人の笑いを誘うもの、それが高級なコメデイであると思います。

 

 

以前何かで読んだのですが
 

映画でも小説でも
 

ストーリーがどうだとか映画技術がどうだとか
 

文章がどうだとかはさほど問題ではなく
 

鑑賞者もしくは読者がそこから何を学んだかが一番大事なことであると。

 

 

主人公の生き様や、考え方  そういったものに美学を発見するから
 

作品はヒットするものではないか??

 

 

女性映画ならジョージ・キューカーといわれるほど、新人女優も
 

返り咲き女優もキューカーの手にかかると蘇った・
 

グレタ・ガルボ(椿姫)もイングリット・バーグマン(ガス燈)も
 

ジュデイ・ガーランドもグリア・ガースンなどなど。

 

キャサリンは(愛の嗚咽)から(若草物語)(素晴らしき日曜日)
 

(フイラデルフイア物語)など10本のキューカー作品に出演している。

 

またまたキューカーは、
 

ヒッチコック、ジョン・フォード、ジョージ・スティーヴンスなどの
 

名匠の映画製作をも陰ながら支えていたといわれている。

 

そしてマンキウッツは

 

監督としても一流ながらプロデユーサーとしてもデ審美眼で
 

この(フイラデイルフイア物語)をプロデユースしている。