《山猫》・ルキノ・ヴィスコンティの美学 ・アラン・ドロン作品・ 伊 1964年度 | 吐夢の映画日記と日々の雑感

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懐かしい名画、最近の気になる映画のことを
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戦前のフランス映画が大好きです。
基本、鑑賞後の感想ですのでネタバレが殆どです。
ご了承くださりませ。






《山猫》


没落貴族の哀歓をヴイスコンティが.。

こんばんは。

ヴイスコンテイ第2作目。

今日はヴイスコンテイによって、演技開眼した?
バート.ランカスター.
アラン.ドロン、≪刑事≫によって鮮烈なデビューをした
クラウデイア.カルデイナーレの競演です。

まず、ヴイスコンテイーのカラーとは.
一言でいってリアリズムの巨人である。
本人自身が貴族の出身であるから、《ナポリから北一帯がヴィスコンティ家の領土だったそう。》
この山猫も貴族の日常が非常にリアルに描かれている。

そしていかな俳優もヴイスコンテイの手にかかると
それまでのイメージと
がらりと変わってしまうという魔法の
手を持っている。

ダーク.ボガード、
ランカスターは、
ヴイスコンテイと出遭って
役者になったといっても過言ではない。
ただし、言わせていただくと、個人的には
バート.ランカスターは
知性は感じられないが、
野性的で男らしいタイプだったのが、男色っぽい
匂いがするような
変化で好ましくない です。
ダーク.ボガードもしかり。
  

さて、 ≪山猫≫、

 ストーリー

 シシリーに300年の家系を持つランカスター扮する
公爵がいます。

かつて、シシリーの王家といわれた名門貴族。
その家の紋章が”山猫”なんですね。

年老いてなお豪華な生活をしているが生活は苦しい。
持っていた土地を次々と手放し、いわゆる売り食いをしている
状態である。

貴族が、だんだんと身の皮をはがれ、没落していっている
時代に入った頃のことです。

公爵は、自分の子供は、みんな嫁いでしまっているし、男の子は
いません.
だから、
甥の
タンクレデイという青年を可愛がっています.
この甥にアラン.ドロンが扮しています。

ある時、この土地に革命、戦争が起きました。

昔は、イタリアには統一の為の戦いがしょっちゅうありまして
ここの家族もどこかへ疎開しなくてはなりませんでした。

それで彼は田舎の別荘へ行ったんです。

その田舎でも豪華な、派手な生活をします.
それとうらはらに
だんだんこの公爵の
淋しい姿がだんだん
鮮やかに浮き上がってきます。

すべて売り食いの生活なのに
豪華な晩餐会を開きます。
当然たくさんの人々が集ってきます。

そこへ土地の農夫上がりのおじいさんが
末の美しい娘を
連れてやってきます。

それがクラウデイア.カルデイナーレです.




タンクレデイは彼女に
一目ぼれしますが、
公爵はそういう下賎のものと口を利いてはいけないと言います。



上下関係を重んじる昔かたぎの人なのですね。

しかし、彼が売り食いをしているその土地を
買ってくれているのは
他でもないこのおじいさんなのですね。

いままでは
そういう農夫上がりの人などは
そのような晩餐会に
出席など出きるものではなかったんです。


プライドがプライドの意味をなさなくなった公爵の淋しさなのですね。

それだけではなくいろんなことに昔のような威厳が通じなくなった寂しさはどうしようもないのです。

こうやって自分たち貴族の時代が終わっていく、
没落していく時代の流れをリアルに描くというお話です。

晩餐会が終わって、明けの明星が出てくる頃、
公爵はただ一人、表へ出て散歩をするところでこの映画は終わっています。
こんな内容のお話を3時間近く描く大作です。

いかにもヴイスコンテイタッチ、
ヴィスコンティ ワールド
です。


貴族という、ヴイスコンテイ自身の生まれた家に対しても皮肉っているのですね。
どうしようもない、働いてお金を得ることを知らない人たち。
しかしそれをどうのこうのと批判しているのではなく、
ありのままを描いているだけなのですが、
そのありのままを演出するのに徹底したエネルギーを噴出する
力強さがヴイスコンテイそのものである。

邦画の吉村公三郎監督の作品に≪安城家の舞踏会≫がありますが、
日本の華族様の没落してゆく様を描いていました。ここでも、プライドがプライドの意味をなさない屈辱に父と娘が耐える話。共通していますね。

貴族のプライドなど成り上がりの金持ちの前では
なんの意味もなさない.また成りあがりにしてみれば
そんなプライドも金で買えるというわけだ。


先日紹介した《夏の嵐》にしても
この山猫にしても
ヴイスコンテイの映画の画面の重厚さには圧倒されます。
ヴィスコンティ作品は
限りなく贅沢な本物の美術を見せてくれます。


自分の城内を再現するようなものだから、
勉強して装飾をするわけではないーーだからリアリズムなんだろうと。
山猫にしても、家族の肖像にしても、夏の嵐にしろ、ルードヴィヒにしても、絢爛豪華な本物の美術と、イタリア貴族の
生活様式、作法がリアルに伝わってくる。
日本の文化人たちに
ヴィスコンティファンが
多いのも頷けまさす。


夏の嵐のラストの刑場での場面は
処刑前後のシーンとはいえ
美しさを感じました。

ひとりひとりの兵士が
松明を持って列を組む。

バックの画面のブルーとあいまって幻想的で
さえあった.

アメリカ映画、フランス映画にはない重厚さである。
独特なんですね。

ルードヴィヒ 神々の黄昏
のヘルムート.バーガーと並び
山猫のアラン.ドロン

まさにヴィスコンティと
美しき男たち と
ヴィスコンティの美学が
堪能できます。

1964年度作品

追記

録画しておいた
今年の カンヌ映画祭授賞式の模様を先ほど見ていました。

トリュフォー監督の
《大人は判ってくれない》の主人公の坊や
ジャン.ピエール.レオさん、なんと御歳 72歳で 名誉パルムドール賞受賞で舞台に立たれていましたが、感無量でした。
いやあ、映画の歴史って
すばらしい。