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今年、押井守監督作品、実写版「バトレーバー」が公開されたが、あれは、前のアニメ版「バトレーバー」の劇場版「バトレーバー2」のリメイクくさかった、ところで、その「バトレーバー2」押井守が公開当時語ってように、企画で頓挫した押井守版「ルバン三世」のネタがかなり使われていた、キャラクターも、後藤にルバンの影、松井に次元な影、メカニックの親父さんに銭形や五右衛門の影、しのぶに不二子の影かなり色濃く漂っていた。
実は出渕裕監督の「ラーゼフォン」にも押井守版「ルバン三世」の影が濃厚に漂っていた、当時、出渕裕は庵野秀明監督の「エヴァンゲリオン」に続く作品を作っているとアニメージュなどで語っていたが、僕には「エヴァンゲリオン」とは根本的に違うと観ていてかんじた、「エヴァンゲリオン」には完全に存在し無い最後は責任を持つ大人がいる事だ、それは指令などもそうなのだが、「みんなが集まる日」から登場しながら、あえて、OPには登場させなかった、二神である。始めは、新聞記者として登場し、途中から刑事として動き、最後の方では日本軍の十文字として登場し行動し、最後はまた二神として、大人のケジメとして、ラーゼフォン事件の元きょうである人物と対峙しケリをつけていた、元々、名前が最後は二神というの「ラーゼフォン」の世界の中では2神が最も重要なキーワードなどだが、それと同じ苗字なのは、明らかに意図がある!幾ら立場的に、ラーゼフォン事件の全容を知っているとしても、二神側の他の偉い人たちが知らないであろう事まで知り過ぎている。名前である二神のごとき神のように!かってハッキリと押井守はバトレーバーの後藤はゴット→神から名付けたと語っていた、その後藤こそ押井守版ルバン三世であることも語っていた!こうなると押井守版ルバンの謎の塔が東京が木星とダフらせると、ますます押井守版ルバンとイメージが重なってくる、押井守版ルバンの不二子はTV局の記者だった、二神も記者、銭形警部同様に二神警部として刑事としては呼ばれていた、次元と同じように拳銃を最後の元きょうと対峙した時は拳銃の名手のようであった、また、主人公の父親が、最後に元きょうにケリを付けに行こうとすると、「汚い仕事は俺の仕事ですよ」と止める、これでは殆んど次元やルバンである。そして、押井守は五右衛門を凶器的存在として押井守版ルバンに登場させるつもりでいたのだが、一連の「ラーゼフォン」における行動は、凶器的ものであり、特に最後の元きょうである人物と対峙は完全ににそうである。そして、ルバン三世的でもある。押井守版「ルバン三世」のルバンのイメージは、銭形に見えるものがルバンであり、次元に見えるものがルバンであり、五右衛門のように見えるものがルバンであるという感じだった、ルバンが変装の名人である事をキー考えて、そんなイメージのルバンを押井守は考えていた事を当時アニメージュで語っていた。これに、押井守のイメージする不二子を合わせると、完全に二神である。だから「ラーゼフォン」を観て、僕には「エヴァンゲリオン」継ぐ作品という出渕裕は嘘を付いているなと思った。後に「宇宙戦艦ヤマト」を完全にリメイクした「宇宙戦艦ヤマト2199」を総監督として作っているだから、もう一つの当時アニメのエポックである「ルバン三世」には興味が無かった訳は無いはずはないだろう。また、年齢的に押井守に近い出渕裕がルバン三世のイメージが共有されてていてもおかしく無い!、劇場版「ラーゼフォン」がDVD化された時、押井守と出渕裕は「ラーゼフォン」についてアニメージュで対談している、劇場版では二神と指令を1人人物とた、このため二神は消え、指令だけになり指令から家族が二神と同じで存在していない事になっていた、しかし、押井はTVの方も観た様な話をしていた、だが不思議な事にTVの二神や劇場版の指令の話だけは、何故か?避けていた。何故、押井守がTVの方も観ていたと感じたのは実はTVの方の指令についてのうべんに語っていたからで、なのに二神や劇場版の指令については触れ様ともしなかった、それに出渕裕も、あえて、その事を、押井守につこんでいない感じだった。古い友人でもある出渕裕にあえて言わなかったのかもしれないが、心の中ではこの野郎!やりやがったなと思っていたかもしれない。元々考えていた企画の中でその器(企画)で動ける主人公をルバン三世の話が押井守に来た時にルバンを入れてみてたら、ビッタリだったのでルバン三世の監督を引き受けた事を語っていた。だから、僕は押井守がルバンでやりやがった事を、まんまと「ラーゼフォン」の中で見事にやってのけたと思っている。だから、みんなが押井守版ルバンに近いと思っているOVA「ルバン三世 グリーンVSレッド」などよりも「ラーゼフォン」の方が押井守版ルバン三世に近いと思っている。ところで、何故こんな事を今書いているかというと、今年の10月からTVシリーズとしてルバン三世が放送されるからで、それも今さらルバンと次元が出会った頃から始めるらしいのだが、幾ら若い頃のルバンたちを今さら描いてもしょうがない気がするからで、良く色々なスベシャル版のルバンは役割りヒーローになってしまっていると批判するが、劇場版のルバン三世も「VSクローン人間」せよ「カリオストロの城」も実は役割りヒーローである、ただこの2作品は押井守の云う所の器がルバン三世が動けるほど大きな話、または国際社会を相手にしてる大きなな話であった為、ルバン三世として成立していただけの事で、スベシャル版シリーズ同様に役割りヒーローである。問題なのはルバン三世として成立させれる話の器の大きさである。若き日のルバン三世を今さら描くより、ラーゼフォン並の世界つまり、エヴァンゲリオン様な世界にルバンたちを放りこんだ方が、今、ルバン三世を作品として成立させれる事をTVシリーズ「ラーゼフォン」が示している事を書きたかったのである。ようは、今、ルバン三世を作品として成立させたいのならルバンたちが動ける凄い器(作品設定及び世界観)を考えなければダメだと云う事である。ルバン三世以外でも、今、作るなら、これぐらいの器が必要であると「夜ノヤッターマン」が証明している。この作品、日本テレビ製作だったはず、日本テレビの人たちもマジのヤッターマンを製作するにはあれぐらいの器が必要だった事は分かっているはず、ルバン三世も同じである。マジに今、ルバン三世を作品として成立させる為、アレどころでわ済まない器が必要な事はわかるはず、少し日本テレビには考えてもらいたい‼️