「自分の心はこうだ。」

 

 

 

 

 

「今、こんな心境だ。」

 

 

 

 

そのように

出来事の後から

後追いで言葉で感想を言って、

 

 

「これが自分の心だ」と、

 

説明します。

 

 

 

 

その説明して

 

「これが自分の心だ」と、

 

 

観ている人こそが

実体のない自分、自己です。

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉を使って

 

 

「これが自分の心だ」

 

 

「自分の気持ちだ」

 

 

そのように

生まれたての赤ん坊の時には

いっさい後追いで説明を言ったり、

感想を述べたりしませんでした。

 

 

 

ですから、

自分、自己と言うのは、

もともと物理的に存在していないのです。

 

 

 

 

生まれたての赤ん坊以降、

考えると云う機能が発達して、

 

 

 

「これが自分だ」

 

 

「これが自分の心、気持ちだ」

 

 

と認識するようになります。

 

 

 

 

もともと、生まれた時は、

鼻っから自分なんて存在していないのに、

 

 

「自分」

 

 

と言う、観念上の上に城を立て、

心安ずる所を造り立て、

傷つかないようにと城を守ろうとします。

 

 

 

 

自分と言う観念上のお城を立てると、

自分を思い通り、理想通りにしようとし、

心安ずるような状態を保ち続けようとします、

 

 

 

 

対象と認め立てて

人や自然や動植物、

ヒーリング音楽や瞑想音楽、

ヒーリング、

リラクゼーション、

瞑想、

神社仏閣、

御守り、

お金などに

心安ずる状態を探し求め得ようとしたり、

 

 

 

安心感を得ようと、

すがったり、依存したりします。

 

 

 

そのような動きが出てきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

心安ずる何かしらの対象がなければ

安心や安定、幸せや愛を感じられない、

 

 

また、

不安な時は不安感を受け入れられない、

安心感を感じたいがために

探し求めすがりつき、

誰かや何かがないと

安心出来ない

 

 

 

そのような状態は

不自由そのものであり、

 

 

 

仮に幸せや安心や自由を一時的に

感じられたとしても、

 

 

 

すがっている神社や御守りであれ、

依存している人であれ、

頼っている愛溢れる優しい言葉であれ、

依存している美しい音楽であれ、

依存している自然や動植物であれ、

安心感を感じたいがためのお金であれ、

 

 

 

何もかも同じ状態で留まっていられずに

絶えずすべては滅して

新しい今が生じていますから、

 

 

 

また失えば、

安心・安全・安定・幸せ・愛を

感じられずに、また、違う対象を

探し求めすがりつく。

 

 

 

そのような動きは、

真の大安心でも幸福でも、満足でもない、

 

 

 

 

真の自由ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心と言う

自分の城を常に綺麗にしておきたい

快適にしておきたい、

常に安心にしておきたい、

 

 

 

そのように

 

瞑想や

ヒーリング、

お金をたくさん得る事のように

 

 

ある一定の状態・境地に

しておこうとするために

定着などと言って奮闘し続ける事は、

 

 

 

その一定の状態・境地でないと

安心感や幸福感を感じられず、

今の生活を受け入れられないと言う事であるので、

 

 

 

その方向性の道にほとんどの人間が進んでいますが、

楽なのは一時的でしかなく、すぐに宇宙は変化するので、

そこに真の大安心、幸せ、平和、真の自由はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一切皆苦、

 

宇宙も心もいっさい思い通りになりません。

 

 

 

そもそも、

 

 

「これが自分の心だ」

 

 

と言っている自分、自己は

元から生まれてもいません。

 

 

 

自分と言う観念上に立てた城・家は

もともと鼻っから実在していません。

 

 

 

 

ブッダの真の如来坐禅と云うのは、

自分と言うのは観念上の造り事なのだ

と言う事に落着する行です。

 

 

 

 

自分と言う観念上の城・家を手放し、

自分の心が一定の状態に安ずる事がないままに

させておく行です。

 

 

 

 

そのように実践すれば

身体は

絶えず変化する宇宙の一部そのものの様子に

還ります。

 

 

 

 

真の大安心・真の平和・真の自由に還ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身体と云うのは、

宇宙そのものの変化の様子です。

 

 

 

その宇宙そのものの変化の様子の

身体に生じている思いや感情や感覚を

自分の一定の理想的な状態に、

美しい海の綺麗な波の状態のように

固めて定着させようと、

 

 

 

こんな思いが出てきちゃいけないと

問題視して後から考えで取り上げるから、

 

 

 

絶えず変化する宇宙の一部である身体を

自分の思い通りにしようと奮闘するから、

だからそこに窮屈さ、滞り、迷い、苦悩が生じるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブッダの真の如来坐禅中に

 

 

 

「なんで上手く坐れないのだろうか!?」

 

 

 

「坐っていてなんの意味があるのだろうか!?」

 

 

 

 

 

そのような疑問の感想が湧いてくると言う事は、

宇宙の一部そのものの身体を

思い通りになんて出来ない、定着させられないのに、

自分の思い通りにしようとしているからです。

 

 

 

 

それでは実践になっていません。

 

 

 

 

その思い通りにしようとやるのが、

観念上の自己、

生まれた時にはもともとなかった

自分です。

 

 

 

 

 

如来坐禅と云うのは、

自分を捨てて置いたままにする技術です。

 

 

 

 

自分と言う遮るものがなければ、

すでに

すべて何もかも自分そのものなのです。

 

 

 

 

猫の鳴き声、

鳥のさえずり、

目の前の風景、

目の前に映っているすべて、

全部自分でしかないのです。

 

 

 

この事は非日常的な絵空事ではなく、

現実の事実なのです。

 

 

 

 

 

周りのすべてのものが、

本来の自分、本当の自分なのです。

 

 

 

 

 

 

自分と自分以外が存在しているとしか思えなくなって

しまっている事のほうが

気が違ってしまっているのです。

 

 

 

 

小さい頃から

 

 

「自分の気持ちを大切にしなさい」

 

 

と教育されてきてしまっているからです。

 

 

 

自分の気持ちからでしか、

個人的世界観からでしか、

周りのものすべてを見れなくなってしまっているのです。

 

 

 

 

さらに教育で自分の感じている気持ちにまで、

 

 

「このような気持ちの感じ方が正しい」

 

 

「このような道徳観が正しい」と、

 

 

 

気持ちの感じ方にまで正しい・間違いを設けて、

 

 

「自分のほうが正しくて、あいつは間違っている」

と、

 

 

 

 

社会通念・道徳観念に自分や相手を照らし合わせて、

批難したり、卑下したり、否定したりして責めたりして

窮屈で愚かな事をやっているのです。

 

 

 

 

 

 

ですから、

医者や整体師や鍼灸師や心理学者、

ヒーラーやボディトレーナーや栄養学者の中で、

 

 

 

「真の健康」

 

 

 

を追及している者がいますが、

 

 

 

何十年も

自分と自分以外が存在していると思い込んじゃっていて、

それは現実の事実ではないので、

 

 

 

真の健康への最適解に

辿り着く事は不可能なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を見つめる

 

 

 

 

自分と向き合う

 

 

 

 

自分について考える

 

 

 

 

そのような心と言う実体のない自己を

観ないで坐るのです。

 

 

 

 

 

心を自分の思い通りにしようと

するから迷うのです。

 

 

 

 

 

 

心が安ずる場所や方法などないのです。

実体のない考え上の妄念の中にしかないのです。

 

 

 

 

 

思いや考えをどうにかしようとするのを辞めるのです。

どんな思いや考えも宇宙の変化として現れてきます。

 

 

 

思いや考えを止めるのではなく、

自分の思い通りにしようと

観察・観照するのを辞めるのです。