人間は

もうすでに

やれてしまっている事には目が向かず、

これからやろうとして、

今後、実現する事ばかりに意識が向いてしまっているのです。

 

 

 

そのように

これから奮闘して

成れるように、得られるようにと、

どうにかして実現しようとする習癖があるため、

 

 

 

 

 

いくら説明をしても

常にどこか遠くに悟りを探したがり、

難行、苦行の果てに

悟りに至ると勘違いし続けているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

参禅して頂く際、

 

「悟ろう!」

 

「目覚めよう!」

 

「解脱しよう!」

 

「決着をつけよう!」

 

 

 

と言う

強い情熱、

強い思い

は捨て去るように指導します。

 

 

 

 

 

悟りは得るものでも、得られるものでもないからです。

法身そのものの無我無心の在り様で、

すでにやれてしまっているからです。

 

 

 

 

すでにやれてしまっているのですから、

これから

どこかや、

知識や情報や

本や動画の中や、

 

言葉の中に、

考え方の中に、

概念の中に探し向かう必要は

いっさい必要ないのです。

 

 

 

 

どこにも向かうところはないし、

すでに身体の六根がやれてしまっていますから、

こちらから実物事実の様子にあろうと、

事実に探り向かう必要はいっさいないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

すでに

無我無心でやれてしまっている在り様なのですから、

悟ろう、

ハッキリしようなどの

強い思いはいっさい必要ありません。

 

 

 

 

その悟ろうと

どうにかしようとやるモノこそが、

仏道における

消滅すべき錯覚の自己に他ならないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分とって

都合の良いものを得るために坐るのではないのです。

自分のために坐るのではないのです。

 

 

 

 

すでにやれてしまっているのですから、

これからどうにかするものではないのですから、

坐るにあたって、

一切なんの作為もいらないのです。

 

 

 

 

何かを求め得る必要も、

何かに成る必要も、

何かを変えたり、手放す必要もないから、

楽ちんなのです。

 

 

 

 

 

「あとは野となれ、山となれ」

 

 

 

 

 

坐ったら、その先はないのです。

なるようにしかならないのです。

 

 

 

 

 

なるようにしかならないのですが、

自分を捨て去り、

宙の一部のチリカスとしてそのままに坐っておれば、

坐に導びかれて

 

 

「なんとかなる」のです。