釈尊の真相、
本当の悟りってどう言う事なんですか!?
 
 
 
 
 
 
 
すでに私なく成り切っている
事実、実物自体の事です。
 
 
 
「ブーン」(車の音)
 
 
 
 
私が右を向こうと
心意識を働かせずにして、
右を向いたら
右の風景の内容の事実が現れて、
 
 
 
自分が左を向こうと
自分を立てて
心を働かせずにして、
左を向いたら、
見ようとしてないのに、
左の風景が見えちゃっていて、
風景自体に成り切っちゃっていて、
 
 
 
 
私が思おうとしてないのに、
「つまんないなぁ〜」
と自然に思えちゃっていて、
 
 
 
飴玉をほうばって
口に入れたら、
感想を話す前に
飴玉の味そのものの実物自体に
成り切っちゃっていて、
 
 
 
 
真相、悟りとは、
実物事実自体の事です。
 
 
 
「あ」
と発したら、
 
 
「あ」
に成り切っちゃっています。
 
 
 
 
見ようとせずに、
すでに、現前の実物自体、
 
 
 
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真相、悟りです。
 
 
 
 
一度、
完全に認識が落ち切る事によって、
真相が露わになります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私が存在していて、
身体側にいて、
物事を認識して
モノや環境を対象だと認め思い、
 
認識出来るようになると、
対象について
考え方で色々な事を考えられるので、
自分がいて、自分以外の対象があると錯覚して
その錯覚したほうを
事実だと思い込んでしまいます。
 
 
 
その錯覚、
認識が一度
完全に落ち切る事によって、
真相が露わになり
ハッキリします。
 
 
 
 
 
悟り、真相は、
 
「ブーン」(車の音)
 
 
「おなか空いたなぁ〜」(思い)
 
 
の、一瞬前と、一瞬後の
前後裁断の今の
事実実物自体の様子ですので、
 
 
ですから、
禅、悟り、真相は
知識や概念、
言葉の中に探し出すものではありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
悟り、真相は、
認識が完全に一度停止して
ハッキリしたか、
ハッキリしていないかの
どちらかであって、
 
 
悟りに段階やステージなどいっさいなく、
 
 
 
すでに生活で
六根が自然とやれてしまっている
事実自体ですから、
 
 
 
禅、真相、
悟りが浅くなったり、
悟りが深まったり、
 
思いがいっさい出ない
明鏡止水のようになったり、
 
悟りが消えたりなど絶対にあり得なく、
 
 
これから知識を身に付けて、
学んで修行して上手になって
積み重ねた先にあるのものではありません。
 
 
 
ですから、
悟後の修行などは絶対にあり得ません。
 
 
悟りとは、
事実実物の事である事がハッキリするので、
悟った後に迷う事もないし、
得たものもないし、
悟る前と同じであり、
悟りが消えてなくなる事もありません。
 
 
 
悟った後に疑念を感じたり、
悟りが分からなくなったり、
消えてしまうような
迷いを感じているのなら、
 
 
それは、
認識が完全に落ち切らずに
お釈迦さんが指し示した
本当の悟りとは違うものを
体験、体感してしまい、
悟りではないモノを
悟りだと思い込んでしまっているのです。