実践による成果、

いわゆる仏果と云うもの、

 

 

ある一定の境地、状態、

 

 

生活していくためのメリットを挙げさせて頂いていますが、

 

 

 

 

本来はそう云う事を振り返って自分を立ててやらないのです。

 

 

 

 

実践を続けて

振り返って、

 

 

「嫌な思いが浮かばなくなってきました」

 

 

だとか、

 

 

 

「思いの中に深く入り込む事がなくなりました」

 

 

 

だとか、

 

 

 

「すぐに気持ちが切り替わるようになりました」

 

 

 

だとか、

 

 

 

「目の前で怒り狂って暴れている人を見ても、何とも思わなくなりました」

 

 

 

だとか、

 

 

 

「うつの状態が良くなり、思い患う事がなくなりました」

 

 

 

だとか、

 

 

「トラウマの記憶の思いが浮かんで来るのが減ってきました」

 

 

 

 

「環境自体そのものになって来ました」(笑)

 

 

 

 

「ものと一つになって来ました」(笑)

 

 

 

「宇宙の果てまで行って来ました」(笑)

 

 

 

「だんだんとハッキリして来ました」(笑)

 

 

 

「世界や宇宙、自己の真相がどうなっているのか、だんだんと分かってきました」(笑)

 

 

 

 

「心を制して、だんだん不動心になってきました」(笑)

 

 

 

 

そのように確かに実践による仏果は顕れてきますが、

上記のように振り返って言葉にして説明する事をしないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お釈迦さんの悟り、解脱は自分を捨て去る道です。

 

 

 

 

その人にとって、

自分にとって都合の良い状態、ある一定の境地を求め得るためにするものではないのです。

 

 

 

悟りとは何かしらの一定の境地、状態ではないのです。

 

 

 

認識以前の移ろう前後裁断の今の事実自体そのものです。

 

 

 

 

 

提唱を聞いたり、実践していて、上記のように振り返って、

時間の概念や原因と結果の法則を持ち出し、

 

もうすでに過ぎ去った、その時の今の事実の様子を言葉にして感想を言うモノこそが、仏道における消滅すべき自己であり、

 

 

 

 

その思い通りなってきていると認識し、都合通りのモノを得ようとする自己が抜け落ちない事には、完全に決着する事はないのです。

 

 

 

 

 

自分が今どうなっているのか、都合通り、理想通りの状態になっているかどうか、気になるから、観察して自分を観てしまうのです。

 

 

 

 

自分を観察して観ている奴こそが消滅すべき実体なき自己です。

 

 

 

今の自分の境地、自分の状態が気になって、仏果を気にして、

自分の思う通りに何とかしたいと観察して、

実践の感想を言ったり、ブログで感想を書いたり、

そのように自分を守って可愛がって観ているうちは、

永遠にハッキリする事はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指導させて頂いていて、

実践している途中経過で、その人に振り返させて
どのような都合の良い仏果が得られたかなどと、

感想をこちらから一切求めません。

 

 

 

 

このような仏果が得られたなどと感想を言って、実践者が伝えてきたら、

 

 

 

「そのように振り返って、掴んで取り上げる事はしてはならぬ。それこそが仏道における消滅すべき自己なのです。」

と伝えています。

 

 

 

 

 

 

実践の邪魔、障害になるので、

実践を振り返り、感想を言葉で解説したり、
 

ブログ等で書いたり、

 

当ブログを積極的に読んだり、

 

 

 

読んで頂いて、感想を書いたりする事を戒めています。

 

 

 

実践者が

提唱や実践をしている途中で

完全にハッキリしていないにも関わらず、

 

 

振り返って取り上げ、

感想を言葉にしていたり、ブログ書いたりしていたら、

 

 

「そういう事やってはダメなんですよ~」

 

 

激しく諭します。

 

 

 

 

 

 

なぜなら、

そうやって身体を自分だと思って、

そのように振り返ったり、反省し、

自分の都合通りになってきたと感想を言ったり、

書いたりする奴こそが、

仏道における消滅すべき実体なき自己そのものに他ならないからです。

 

 

 

完全に決着してハッキリしている指導者なら、

そのような実践者の行為を絶対に咎めるはすです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このアメブロ内でも、

実践者達に

提唱や実践の時の事を振り返させる事を容認し、

このような仏果があったなどと、

提唱や実践における感想を書かせている事を容認して、

むしろその行為を実践者募集の宣伝目的で賑やかに見せかけ、

リブログを推奨させている指導者がいますが、

 

 

 

 

 

ますます

悟り、解脱、自己の真相から遠ざけさせ、

実践の障害になっていて、

 

 

 

実践者を自己を忘ずるところから遠ざけている自覚がないからこそ、そのような行為を平気で容認しているのです。

 

 

 

 

 

提唱は禅を正しく知る事において大事ですが、

内容を理解するようなものではなく

何度も聞いていれば、徐々に、だんだんとハッキリして、

思いの中に深く入り込まないようになれるのは、大間違いです。

 

 

指導者に依存的になり、上手く調子に乗せられて言いくるめられて、騙されている事に気づけていません。

 

 

 

 

提唱を聞き、

本当の禅と云うものを正しく知って、

2500年前に仏陀が菩提樹の下で実践していた

正しい真の如来坐禅の実践&日常の全てが禅の実践ですが、上記のように実践の障害、邪魔になる事を一切やらない工夫、

 

 

提唱で正しい禅を体得して、それから正しい真の如来坐禅の実践をしていく。

 

 

両方とも、両輪として欠かせなく大事なのです。

 

 

 

提唱がなによりも一番大切だと抜かしているものは、勘違いしており、完全に決着していません。

 

 

 

また、

正しい真の如来坐禅の実践だけが大切だと抜かしているものも、禅を理解しておらず、ハッキリしていません。

 

 

 

 

両方、両輪が回り出して、はじめて正しい実践になるのです。

 

 

 

 

 

完全に決着し、ハッキリしている者は、

アメブロ内では定期的にブログを書いている者の中では、一人もいない事が明確になりつつあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏道というのは生まれたての赤ん坊に一度、還る道です。

振り返って感想言う奴が消滅すべき自己なのですから、

自分を見つめて振り返って感想言う事を止めるのです。

 

 

 

もともと実体のない

振り返って自分を見つめると言う事を止めれば、

自分を立てて、自分の事を観て、出来事を取り上げてと作為する事を諦めきれば、

 

 

 

自然と

いっさいの自分や出来事を問題にする事がなくなり、

迷って患って悩めなくなり、

 

 

 

故に

生まれたての赤ん坊に還り、

解脱の体現に与れるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ZOOM40分間無料、オンライン説明会をしています。
お気軽にご予約してくださいませ。