病気が悪化し、地位や名誉も名声も肩書きも失った。
働けなくなり、儲ける事が出来ずにお金も失った。
身体が動かなくなり、外に出れなくなり、寝たきりになり、
天井ばかり見ている日々が続いた。
病気のため友達と遊ぶ事も出来ず、連絡もするのが億劫になり、人間関係は途絶えた。
見た目は健常者と何も変わらないが、何もする気力が湧かず、病気でそのような症状が続いているだけなのだが、家族の病気に対する理解がなく、性格的な問題だと罵られ、家族との縁も切れた。
まだ、
雨風しのげて休める居場所は何とかあったが、
それ以外の全てを失った。
全てを失ったまま、
病気が悪化する前の人間関係を取り戻す事も、お金を稼ぐ事も出来ずに、何もかもそのままで、元に戻そうとする気力もなく、そのままに、やがて、誰かや何かしらの対象にすがったり、ありとあらゆる依存したりする事さえも全て捨て去らざる負えなかった。
諦めきって、
もういつ死んでも構わないと肚を括って全てを捨て去ると、
世間がワーワー騒ぐような大きな出来事が起きても、
例えば、
1憶失おうが、最愛のパートナーが死のうが、恋人と別れようが、身体が動かなくなろうが、猛烈な台風が来ようが、震度7の地震が来ようが、目の前でショッキングな事が起きようが、
いっさい何事にも動じなくなる。
全てを失い、絶望しきって
どん底のどん底まで落ちた人間は幸運なのです。
なぜなら、
世間一般の人達が動揺する大きな出来事が起きても、大きく心が揺らぎ、メンタルが揺さぶられ激しく動揺する事がなくなってしまいます。
メンタルは、世間一般の通常の人間の数百倍強くなります。
世間体をいっさい気にしなくなるから、こうあるべき、こうあらねばに囚われず、人目がいっさい気にならなくなり、人が失敗を恐れ、敬遠して躊躇してしまうような行動を意図も簡単にチャレンジして行動に移せます。
何もかも全てを失ってしまい、
見栄もプライドもないし、
これ以上、何も守るものもないし、
自分の事も傷つかないようにと守る必要性もなくなるので、
取り返しのつかなそうな凄くリスキーな行動も、失敗をいっさい恐れず、意図も簡単にチャレンジする事ができるようになります。
安心・安定・安全・幸せ・愛を誰かや何かしらの対象に求めなくなるので、軸がシッカリとしてブレなくります。
そして、
日常な小さな事に、些細な事に有難みと幸せを感じる事ができるようになるのです。
歩ける事、お風呂に入れる事、電気、ガス、水道が使える事、太陽の光を浴びれる事、呼吸が出来る事、
些細な事に幸せと感謝の念が自然と湧いてくるのです。
感謝と云うのは、
無為自然とその時に自然と湧いてくるものです。
日常の当たり前の、
例えば
電気が普通に点灯すると云うのは、当たり前のようで当たり前ではないのです。
世界の全ては無常に変化しており、そもそも当たり前の事なんて、呼吸が出来ている事さえも、
当たり前の事なんて何一つないのです。
だからと言って、
感謝しなさいとか、
感謝しましょうとか、
感謝すべきとかではありません。
感謝と云うのは無為自然と湧いてくるものであって、無理にするものでは本来ないのです。