どんな自分の事も、
どんな以前の出来事も、
いっさい「問題」だと思えなければ、
解脱の体現に与って
開いているわけではありませんが、
方向性としては、
それで、悟りの正しい道にあります。
気づきなど、何かしらの体験などいっさい必要なく、
それらは、全て悟りぞこねであり、
釈尊の真の悟り、解脱の体現にあらず。
本当は
すでに無我無心で悟っていて、
先ほど申したように、
どんな自分や、
どんな以前の出来事も、
無為自然と、いっさい「問題だ」と思えなければ、
解脱の体現に与って、開いてなくとも、
ハッキリと悟りの道にあり、
それで十分です。
このことを伝えると、
大半の方が考えで作為して、
「自分や、
以前の出来事を問題にしないようにしよう」
としてしまいますが、
それは間違いです。
それでは、
ブッダの悟りの正しい道から外れてしまっています。
「問題にしないようにしよう」
と考えでやっている
観念そのものが、
実体なき、仏道における消滅すべき自己に他ならないからです。